とりわけ強制不妊問題については、この間に随分進展がありました。その要因のひとつに粘り強く取材を続けておられる京都新聞記者森 敏之さんの活躍もあると思います。森記者さんをお招きして、強制不妊問題の講演をしていただき、映画『凱歌』を上映したのは2023年11月12日のことでした。先日facebookを見ていましたら、懐かしいお顔の写真が目に飛び込んできました。『凱歌』でその生き方が採り上げられていた山内きみ江さんです。
これが、facebookで目にした8月11日付け朝日新聞デジタル版です。

戦争とハンセン病のはざまで:前編
ハンセン病元患者の山内きみ江さん(92)には忘れられない出来事がある。東京都内の講演会で話していると、男性が割って入るように自らの体験を話し始めた。
「俺はらい病(ハンセン病)の患者を目隠しして、掘った穴に生き埋めにした」
男性は元軍医を名乗った。
軍隊に従事し、出征先の海外で終戦を迎え、食べ物にも事欠くなか、敵軍から逃げ回っていたらしい。そんな環境下で、ハンセン病に感染したらしい隊員2人を殺す計画を立てたというのだ。
「逃げているときに、らい病は他の人にうつると、多くの人に迷惑をかける。医者として見過ごすことはできず、感染経路を断つしかなく殺した」
男性はそう強調した。
山内さんは憤り、こう反論した。「先生は医者でしょう。人の命を助ける人でしょう。あなた、うなされますよ。殺された人たちはまだ苦しんでいますよ」
◇

国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)で暮らす山内さんは、現在の静岡県藤枝市の農家に生まれた。小学校にあがった頃、耳の後ろに白っぽい斑紋ができたことに気づいた。太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年の頃で、それは初期症状だった。
体に異変「戦争に勝つまでは辛抱」
戦況が激しくなるとともに、山内さんの症状もひどくなってきた。竹やりを手にしてわら人形を突く練習で、手先の感覚がなくなり、竹やりを落としてしまう。「敵を倒す気がないからだ」と小学校の教師からしかられた。「米国の兵隊はわら人形みたいに弱いのですか」と尋ねると、「非国民」と尻を竹やりでたたかれた。
帰宅して家族に話すと、父は泣きながらこう言った。「先生を恨むな。恨むなら戦争を恨め」。教師自身もまた、召集令状が届けば戦場へ送られる立場だ。山内さんは体の異変を感じてはいたものの、「戦争に勝つまでは辛抱しなければ」とじっと耐えた。
小学5年生のときに玉音放送を聴いた。症状は進み、既に鉛筆は持てず、本をめくることもできなくなっていた。紡績工場に就職したが、指先の感覚がなく、細かい作業ができずに解雇された。痛みは日ごとに増した。戦時中は医師に診てもらえなかったが、終戦を待ち、ついに病院に駆け込んだ。だが、「関節リウマチ」と誤診され、病気の発見は遅れた。
その後、洋服の仕立て店で働いていたときに、客から苦情が出たことをきっかけに再び病院で診断を受けると、ハンセン病と判明した。医師から「いまさら療養所に入所しなくてもいいのではないか」と言われたが、「家族に迷惑はかけられない」と1957年、22歳で自ら多磨全生園に入った。実家の集落でハンセン病患者が出た家族が村八分にされるのを見てきたからだ。
入所後、長らく「語り部」として講演活動を続けてきた。らい予防法の廃止から30年経つが、いまだに病気のことは知られておらず、病気への恐れから差別と偏見につながっていると感じている。「まだ偏見がないとは言い切れない。いまもいろんな病気があるし、少しでも理解してもらいたい」と話す。
◇
講演会から2週間経った雨の日、元軍医の男性と再び会う機会があった。「あれから毎晩うなされるんだ」。謝罪の言葉こそなかったが、山内さんは後悔の念を感じ取った。語り続ける大切さを改めて知った。
「戦争は人を変えてしまう。人を助けるはずの医者まで人を殺すようになる。だから私は人ではなく戦争を恨むのです」
山内さんは「自分の体験を話すのが使命だ」と、いまも講演を続けている。
……………………………………うっかり、8月12日の記事を読むのを失念していました。そして、ここに貼った記事もそのうち消されるかもしれませんが、まだきみ江さんのことを知らないでいる人のために、ダメもとで貼ります。
早速私は、2023年11月12日の振り返り記事を書いたブログのリンクを貼ってfacebookで書きました。「国立療養所多磨全生園できみ江さんは定さんと知り合って結婚します。園のきまりで強制不妊手術を受けされられ、定さんは犬猫のように麻酔もない手術を受けさせられたそうです。1947年化学療法薬プロミンの効果がはっきり出ているにも関わらず、国は1996年になって漸く「らい予防法の廃止に関する法律」を施行。きみ江さん定さん夫妻は、誤った隔離政策と強制不妊の二重の苦しみを味わされました。ブログで紹介した『きみ江さん ハンセン病を生きて』(片野田斉著、偕成社)には、朝日新聞の記事で触れている元軍医の話も出てきます。ともあれ、きみ江さんがお元気でお過ごしだとわかり、それが何より良かったです」と。
さて、今朝の京都新聞市民版トップは、森記者の記事でした。

映画『ヒゲの校長』の監督谷 進一さんは、私どもの副代表をしてくださっていて、この作品が完成してまもなく、2022年11月3日、おもちゃ映画ミュージアムを介して知り合ったNISSHA財団の小西 均様の多大なご尽力によって国登録有形文化財の本館で上映させてもらいました。

今年8月4日家にあった古い速記タイプライターをNISSHSA印刷歴史館に寄贈した折に久しぶりにお会いした際も、『ヒゲの校長』上映会の思い出話に花が咲きました。もう4年近く前のことなのに、いつまでたっても心に残る良い上映会でした。
その感動作が来る9月5日京都市左京区の市国際交流会館で上映されます。しかも谷さんの希望が叶って「超バリアフリー版」で。日本語字幕、日本語音声ガイド、英語字幕、磁気誘導ループを設置されるので、谷さんが言うように「障害の有無にかかわらず同じ空間で一つの作品を楽しんで欲しい」です💗
紙面掲載写真で谷さんが左手に持っているのは、京都大学点字サークルのメンバーがボランティアで作って下さった点字のチラシ。右手に持っているチラシを点訳して貰ったら3枚弱になったそうです。

私が枚方に住んでいた40年ほど前のことでしょうか、点字絵本を作る連続ワークショップに参加したことがありました。透明シートを何枚も等高線状に切って貼って表し、指でなぞって起伏がわかるよう工夫したような記憶があります。谷さんは、「視覚障害もまだまだ知らないことだらけでした」とおっしゃっていたので、今度の上映会も契機になって、新たな監督作品ができるのを楽しみに待ちたいです。

京都民報の記事は、特別出演され昨年9月9日に亡くなった俳優栗塚旭さんに焦点を当てて上映会を紹介しています。早いもので、もうすぐお亡くなりになって1年になるのですね。心温かい作品に協力し、こうしてまた大勢の人に鑑賞いただける機会があることを天国で喜んでおられることでしょう。

どうぞ皆様、9月5日はお誘い併せて超バリアフリー映画『ヒゲの校長』上映会にお越しくださいませ‼

