2024年07月

7月16日夕刊
7月3日の画期的な最高裁判決以降の京都新聞の記事を貼り付けます。16日付け夕刊連載の初回で被害者のお一人で原告の北三郎さんの体験が紹介されています。
7月17日朝刊1面
7月17日朝刊1面。
7月18日1面
7月16日岸田首相が被害当事者の人々に直接謝罪したことを報じる7月18日付け1面記事。
7月18日3面
京都新聞7月18日付け3面に大きく掲載。
7月18日夕刊
翌7月18日付け夕刊連載の2回目。映画『沈黙の50年』で自らの体験を証言している小林寶二さん。文末にこの映画にも触れています。
7月19日社説
7月19日付け社説。
7月19日夕刊

7月19日夕刊連載の最終回では、札幌訴訟原告の小島喜久夫さんの体験が語られています。
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これは7月25日付け。文末の「(手術を)思い出したくないという人もおられ」の一言に心がグサッとしました。どんなに悲しくて、悔しくて、辛かった人生かと思い、少しでもそれを慰めることに繋がれば良いのにと素人考えでいたことを恥じました。それ以上に「思い出したくない」という感情が優先する人もおられるのですね。国は長い間誤った優生思想のもと、不妊手術を強いてきたのです。二度とこのようなことが繰り返されないよう、真摯に反省し、教育現場はもとより、様々な機会をとらえて世の中全体で払しょくするよう努めていかねばなら良いと強く思います。

今日は相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら45人が殺傷された事件から8年の日です。昨年11月12日に強制不妊手術問題をテーマに講演して下さった京都新聞記者森敏之さんの講演と「障害者の尊厳・人権について」をテーマにしたシンポジウムがありますので、会場の同志社大学今出川キャンパス明徳館1階M1番教室に出かけてきます。相模原殺傷事件を考える実行委員会主催です。予約不要で無料です。13時開場、13:30~16:30ですが、時間内自由だそうです。

また、19時半から京都市南区東九条東岩本町の市地域・多文化交流ネットワークセンターでも日本福祉大学准教授藤井渉さんによる集会があるようです。こちらも、予約不要で無料。

ご都合よければ、どうぞお出かけください。



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7月13日、田村誠志さんが来館。8月18日に上映する『沈黙の50年~国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち~』の予約を頂きました。多くの人たちが10時からの第1部を希望されて定員に達し、続く13時からの第2部、16時からの第3部、19時からの第4部も予約が相次ぎ、締め切り直前です。皆様、関心を寄せて頂きまして誠にありがとうございます‼

田村さんは聾の若者。筆談で話しましたが、口話も上手。それで少し話を交わしました。アメリカのワシントンDCにあるギャロ―デット大学で学んだ後、同大学大学院を卒業。8月に博士になるためにアメリカに戻り、5年間研究をするのだそうです。

「何を勉強するの?」と聞けば、「日本手話の研究をしたい。特に京都の手話を」ということでしたので、参考になるからと思い、「谷進一監督の前回作『ヒゲの校長』をご覧になりましたか?」と尋ねたところ、まだご覧になっていませんでした。何とか見せてあげる方法はないものかと谷監督に伝えました。

田村さんがおもちゃ映画ミュージアムに来られたのは、5月に大学院卒業後に京都に帰国したものの、何処に聾者のサークルがあるのかわからずにいたそうです。今日入った喫茶店で思い切って尋ねたところ、お店の人が『沈黙の50年』のチラシを渡しながら、その上映会に行けば聾の人と出会えるのではないかと助言して下さったのだとか。faxをお持ちじゃないので直接申し込みのために訪ねて来てくださったという次第。

はた目に聾者の人々のネットワークは網の目のように張り巡らされているように思っていましたが、そこに辿り着けずに困惑しておられる人々もおられるのだなぁと思いました。田村さんは素晴らしい行動力があるので、こうして出会えましたが、引っ込み思案な人はどうなんだろう?とフト思いました。

NHKのEテレ「#ろうなん」に登場されたことも教えて貰いました。https://www.youtube.com/watch?v=mMiW5deq5YY&list=LL 短い番組ですのでぜひクリックしてご覧下さい。

私自身は不勉強でアメリカに聾・難聴者のためのギャロ―デット大学があることを初めて知りましたが、世界的に知られている大学なんですね。設立されたのは約160年前のこと。改めてネットで調べてみますと、1857年に慈善家エイモス・ケントという人が土地を寄付して“コロンビア聾唖教育施設”が作られ、今から160年前の1864年に国立聾唖大学になり、リンカーン大統領が署名しています。これが今のギャロ―デット大学の始まり。

1864年の日本は?と調べれば、元治元年6月4日に新撰組による有名な“池田屋事件”が起こっています。そういう時代に、アメリカでは国立の聾者や難聴者が学ぶための学校が作られていたのは凄いですね。

キャンパス内に全米デフライフ博物館があるのも素晴らしいです。大きなスペースを割いて紹介しているパネル“デフ・プレジデント・ナウ運動”はDPNと呼ばれているそうです。長年、学長は健聴者が務めていましたが、学生たちは当事者主体の大学をめざし、聾者の学長を選出するよう抗議デモを行ったそうです。

その運動が実ったのは大学設立から124年後の1988年。随分時間がかかったのですね。現在田村さんのように日本からだけでなく、世界100カ国以上の国から留学生が訪れ、大学全体で約1600人の学生がおられるそうです。番組では研究センターで働く皆川さん、留学生の鈴木さんの他、ソーシャルワークの高山亨太教授も紹介されていました。

皆さんアメリカ手話でコミュニケーションをとっておられましたが、手話には書き言葉がないので、田村さんは手話を記録して文字にすることが出来ないかと勉強をされていて、「それが成功したら日本の手話に応用してみたい」と目標を話しておられました。

番組の最後に高山教授が「この大学に来て感じたのは、聾・難聴者が社会で活躍できる環境がしっかり整備されていること。アメリカには専門知識を身につけた聴覚障がい者がたくさんいる。その人たちがロールモデルとなって、その専門知識の分野で仕事の選択肢を広げることができる。これからは母国の日本に焦点を当てて、聾・難聴者のコミュニティの地位向上、そして彼らがアジアの聾社会に影響を与えることが出来るようにしていきたいと考えている」と話しておられます。

8月18日に上映する映画は旧優生保護法下で本人の意思を無視して不妊手術を受けさせられた聾者の小林寶二さんを主人公に撮影しています。同じく聾者だった妻の喜美子さんは裁判途中で無念にも亡くなります。高齢の夫妻は裁判を通して、国による戦後最大の人権侵害を自らの体験を語りながら世に訴え、二度とこのようなことを繰り返さないように、「差別のない社会に」と願って活動されている様子を記録しています。

学生たちの要望が叶いギャロ―デッド大学に聾の学長が就任した1988年当時の日本は、まだ旧優生保護法下でした。この時点で日本では、まだ障害を理由に不妊手術を強いられていた人々がおられたのです。

7月3日の最高裁判所で裁判長は旧優生保護法が違憲であり、国に賠償を命じる判決を下しました。何でこれほどまでに時間がかかったのかと思わずにはおれません。11日茨城県知事は、判決では本人が同意して行われたとされる手術でも実質的にはすべて強制的な手術だと判断されたとして、補償の対象になる可能性がある人は県内であわせて最大250人ほどに上る見通しだと述べ、「自治体としても意図せず被害を被った人たちに寄り添い、できるだけの対応をしたい」と述べたそうです。

このような姿勢が各自治体におかれても速やかに広がっていくことを切に願います。改めて、障害があろうとなかろうと、その人らしく人生を全うできる世の中になれば良いし、していきたいなぁと思います。

2024年7月10日1面

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9日の超党派議員連盟総会に原告や原告側弁護団も同席されたとのこと。当事者たちの希望が反映した救済策になるよう願います。3日最高裁大法廷での判決の後に行われた最高裁第1小法廷での判決では、「不妊手術を受けたと裏付ける証拠がない」として請求を棄却した1、2審判決が確定しています。一連の訴訟で原告敗訴が確定したのは初めてのこと。知的障害がある当該者が43年前の「証拠」を探すのは大変だろうなと読みながら思いました。明確な手術の記録がなくても、医師による手術痕の診断書、本人や、家族らの説明を書いた請求書で認定審査会で判断される流れのようですが、記事見出しのように「被害証明軽減」を諮ってもらえたら良いなぁと思います。そして、自分が当該者だと知らないでいる被害者の人には、“広報しています”という姿勢だけではなく、プライバシーに十分配慮した上で、個別のお知らせをしてあげて欲しいなとも思います。


2024年7月4日強制不妊問題最高裁判決
既にご存知の通り、7月3日に最高裁大法廷で裁判官全員一致で、旧優生保護法下で不妊手術を強いたのは、法の下の平等を定めた憲法14条などに違反するとし、国に賠償するよう判決を下しました。一連の裁判では「除斥期間」を適用するか、しないかで判断が分かれていましたが、最高裁は著しく正義・公平に反するものとして、適用しませんでした。今後の裁判はこの枠組みによって審理されるので、本当に良かったです👏👏👏
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写真は、8月18日に上映するドキュメンタリー映画『沈黙の50年~国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち~』の小林寶二さん。7月3日判決を前に東京に着いたばかりのスナップ写真。良い判決を期待して笑顔です。本当にここまでよく闘って来られたと思います。
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そして、最高裁判決で勝訴の決定を受けての写真。
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判決が出た後の報告会。大勢の取材陣が駆けつけています。「戦後最大の人権問題」とされる旧優生保護法下で行われてきた強制不妊手術問題。約2万5千人が生殖能力を失う重大な被害を受けました。この日、最高裁は4つの裁判については国に損害賠償を支払うよう命令し、除斥期間を適用して原告敗訴だった仙台訴訟については損害額算定の為審理を差し戻しました。本当に良い判決でした。まだ名乗り出ていない被害者の方も勇気をもって後に続いて欲しいです。そして、この問題では提訴した人ばかりでなく、広く救済と補償が受けられるようになることを願います。
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手話通訳者の姿が見え、大きなスクリーンに映し出される要約筆記も当該者の皆さんの理解を助けています。

たくさんのスクラップなので、後の振り返り用に順に貼り付けていきます。
2024年7月4日3面

記事の中で利光恵子立命館大学客員研究員は「差別を合法化した旧法があったからこそ、形を変えて優生思想が続いてしまった」と考え、「障害や病がある人を国が『劣等者』と決めつけ、各地で手術を推進したことで『障害者が子育てすることは不幸』という意識が隅々まで張り巡らせた」と指摘。障害の有無にかからわず、共に生きる環境が整備されれば『触れ合う機会が多くなり、友人や知人になる。まずそこから』と話しておられます。同感です。2024年7月4日社会面
今も京都府に152人、滋賀県に387人の強制不妊手術の被害者がおられると知った京都市出身の女性と滋賀県出身のご主人が、こうした人権をないがしろにしたことが再び起こらないようにと願って、自身の体験を語り、被害者の方たちに向け「ぜひ立ち上がって」と後に続くことを呼びかけておられます。

今回の裁判では、初めて手話通訳者を配置し、要約筆記もされるなど障害がある傍聴人のために過去最大規模で配慮がなされたそうです。裁判長の戸倉三郎長官の発言内容は大型モニター6台に映し出され、平易な言葉でゆっくりと読み上げられたとあるのも良いですね。傍聴席には12人分の車椅子スペースが確保され、法廷前には緩やかなスロープも設置されたそうです。

障害のある方も参加できる環境づくりは、誰にとっても居心地がいい場所に。

2024年7月4日夕刊と7月5日朝刊1面
7月4日付け夕刊と、5日付け朝刊。夕刊をとらない家庭が増えていますので、再度朝刊1面でカバーした記事。加藤鮎子・こども政策担当相が原告の一部の人たちと面会し、謝罪したという記事。原告の人たちは、首相による直接の謝罪や国会における謝罪、全被害者に対する補償法の制定、再発防止や偏見差別の根絶に向けた施策の実施などを要求したということです。
20240705社説
この社説、文字が小さくて読みにくいかもしれませんが、可能な限り読んで頂きたいです。下から2段目の最後部分「優生手術の対象者は断種されて当然という考え方が法律や政策によって社会に浸透した」。小林寶二さんも2018年に強制不妊問題国賠訴訟で初めて旧優生保護法の存在を知ることになりましたが、それまではずっと親が悪いと思って恨んでこられました。「障害者が子どもを産んできちんと育てられるわけがない」「障害がある子どもが、また生れるかもしれない」、障害がある子どもを産んだ親も肩身が狭い思いをする、そんな考え方が社会に浸透した結果、障害や精神疾患、遺伝性疾患などを理由に多くの人が断種されても、その痛みに共感することなく見過ごされてきました。

手話を守った校長先生を描いた『ヒゲの校長』を上映した折りに展覧会をしましたら、全国各地から想像を超える人数の聾の方がお越しになりました。もう少し時代が先だったら、この方たちも強制不妊手術の対象だったかもしれないと思いながらみておりました。国会で「不良な子孫の出生を防止する」と旧優生保護法が全会一致で成立したのは1948年。それが母体保護法に名を改められたのは1996年のことです。実に半世紀近くも差別的な法律が存続しつづけました。「当時は合法だった」と国も、手術を決定した自治体も他人事のように放置してきましたが、今回の最高裁判決は旧優生保護法自体が違憲だと断じ、「除斥期間」に対しても適用しませんでした。
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昨年11月12日に強制不妊手術問題を考えようと映画『凱歌』を上映し、この問題について取材を続けている京都新聞森敏之記者に主に京都と滋賀についてお話をして頂きました。その折私が願ったのは、京都府知事が当時の手術記録を徹底して探すようにと言って下さることでした。先にも言いましたが手術が妥当か否かの判断は京都府に置かれた優生保護審査会(委員長は京都府衛生部長)が行っていました。国だけではなく、府の責任も問われてしかるべきなのです。時が経ち、廃棄されている懸念もありますが、それぞれの被害者の人生に思いをいたして、当時の記録がないか一生懸命探していただきたいです。

7月8日の報道では、北海道内在住の夫婦(妻80歳代、夫は5年前に死去)が30歳代の頃知的障害を理由に強制不妊手術を受けさせられたと訴えている裁判で、最高裁は旧優生保護法が違憲だと認めたうえで、「手術を受けたことを裏付ける証拠が提出されておらず、受けたと認めることが出来ない。人工妊娠中絶は経済的な理由で受けた可能性も否定できない」として、8日までに原告側の上告を退ける判決が確定したとのことです。

7月3日の最高裁判決は除斥期間適用を認めないなど画期的でしたが、これでうまくいくとばかりも限らないのですね。だからこそ、京都府知事には、府内の各施設や部局に真剣にこの問題に関する書類を探すよう指示して頂けることを願います。

なお、夕刊報道によれば、岸田首相は17日に原告ら関係者と面会すると表明しました。誰かが作文した文章を読むのではなく、心からのおわびを自分の言葉で話してもらいたいものです。

多忙でなかなか紹介できずにいた京都新聞のスクラップを遅まきながら紹介します。

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字が小さくて読みにくい人のために、左下に載っている全面解決をめざす全国連絡会共同代表大橋由香子さんの文章を書き出します。

見出しは「生きづらさ 強いた国策」

……国家の人口管理政策は、女性をターゲットにしてきた。戦前は「産めよ増やせよ」と、多産を求められた。敗戦後は引き揚げや復員による人口増加と食糧難を背景に、国家にとって「役に立つ」子どもを、人口を調節するために「少なく」産む役割を担わされた。こうした背景から1949年、「不良な子孫の出生防止」を掲げた旧優生保護法が制定された。

旧法問題を考える時に重要なのは、刑法の堕胎罪の存在だ。女性に産むかどうかの自己決定権を認めず、家父長制の価値観を維持するために母になることを求めた規定といえる。

旧法は堕胎罪の例外として「経済的理由」などによる中絶を認めた。非合法な中絶には危険が伴い、命の危機や逮捕の恐怖にさらされていた女性たちにとって、旧法は救いの意味があった。

一方、「不良な子孫の出生防止」という目的によって、障害のある子どもを産んだ女性を追い詰めた。「役に立つ子を産めなかった母親」というレッテルを貼り、生きづらさを強いたのではないか。

旧法が母体保護法になっても堕胎罪は110年以上存在し、国家の人口管理政策は続いている。例えば少子化対策の名の下、女性は産むべきだという圧力が高まらないよう注意が必要だ。産むか産まないかを自分で決められる社会。そして、産んでも、産まなくても、自分を肯定できる社会。そうした社会の実現を目指したい。最高裁大法廷の弁論で思いを訴えた宮城県の原告の女性に出会って27年になる。不妊手術だけでなく、産まない女性、子どものいない人を差別する世の中にも、原告たちは苦しめられてきた。「不良」と勝手に決めつけて心身を傷つけた国の責任を最高裁は公正に判断し、被害者の名誉を回復してほしい。……

「産んでも、産まなくても、自分を肯定できる社会」、そうありたいと頷きながら読みました。

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これは6月25日の京都新聞記事。国賠訴訟の原告、北三郎さん(活動名)や小島喜久夫さん、鈴木由美さん、飯塚淳子さん(活動名)、小林寶二さん、野村花子さんと太郎さん(二人とも活動名)の体験が紹介されています。「子どもができていれば人生は変わっていたと思う。今より幸せかもしれないし、不幸かもしれない。それでも幸せになるか不幸になるかは自分で決めること。自分で自分の人生を決めたかった」という小島さんの訴えが心を打ちます。花子さんは「優生保護法は障害者差別です」と大法廷の裁判官に訴えました。

願いは「障害があっても一人の人間として当たり前に生きられる社会に」。国には、杓子定規な「除斥期間」ではなく、それぞれの人が重ねてきた“無念な日々の期間”に思いを馳せて、「人生被害」を償う補償と謝罪を求めたいです。明日は、良い判決がくだされることを願っています。

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