ばたばたしていて、気になりつつも書けないでいた強制不妊問題の判決。1月24日熊本地裁で国に対し損害賠償を求めていた二人に、旧法は差別的な思想に基づき憲法違反だと判断し、合計2200万円の支払いを命じる画期的な判決が下されました。
判決が下る前日と判決が下った24日の裁判に関する記事が載った京都新聞です(記事の上でクリックすると拡大して読めます)。
今年78歳の原告渡辺数美さんは、からだに障害があったことから、何の手術か知らないままに10歳前後の時に優生手術を受けさせられました。後に数美さんは母親から、医師から「体が不自由で病気のこぎゃん子どもがまた生まれたら困る」と言われて優生手術を受けさせたこと、さらに両方の睾丸を摘出することについて医師から説明を受けていないことを聞いているそうです。1955年頃の話でしょうか。
熊本県は「優生手術記録はすべて廃棄した」としていますが、熊本県と言えば、昨年12月5日京都新聞と熊本日日新聞のいずれも朝刊一面トップで大きく報道された戦時中における薬剤を用いた人体実験のニュースを連想してしまいます。1942年12月末から熊本県合志市のハンセン病療養所・菊池恵楓園で、入所者370名以上に対して、陸軍が「虹波」と名付けた薬剤を投与して人体実験を行い、9人が亡くなっていたことを示す文書25冊がこのほど開示されました。文書群からは動物実験さえ経ることなく、静脈注射、脊髄管腔内注射、吸入、座薬、服薬など投与方法を手あたり次第に試すなど異様なやり方をしていたことが明らかになったというものです。
当時のハンセン病患者への人を人とも思わぬ冷たいまなざしが伺えて背筋が凍る思いがします。同様に渡辺さんの医師の言葉からも障害者の人権を尊重しようという姿勢が感じられません。当時の風潮から疑問も罪悪感も抱くことなく対処し、言われるままにするしかなかった家族の様子が浮かびます。息子から責められたお母さまもさぞかし辛い思いをなさったことでしょう。
強制不妊手術等に関する歴史を簡単に書くと、
1940年、国民優生保護法が成立。誤った「優生思想」の考えの下、国は戦争に向けた国力を増
強しようと、当時遺伝すると考えられていた障害や病気の人に不妊手術を促し、国民
の質を高めようと考えました。
1948年、優生保護法成立。「不良な子孫の出生の防止」と母性の生命健康の保護を目的に、条
件付きで中絶を合法化。遺伝性疾患・ハンセン病について中絶・不妊手術を許可、強
制不妊手術を認めます。
1949年、中絶許可条件に経済的理由を追加するなど改定。
1952年、遺伝性以外の精神病・知的障害も強制不妊の対象とされます。中絶の審査制度廃止。
1968年、第2回例会で取り上げた佐々木千鶴子さん(広島市、生後すぐの高熱で脳性麻痺に)
が20歳の時、更生援護施設入所に際し、自分で生理の手当てができないと入所でき
ないと言われて、広島の公的病院でコバルト照射を受けました。この手段も方法も
「優生手術」の範囲を逸脱したものでした。
1989年、女性障害者への子宮摘出が、1982年岡山県の障害者施設で行われたと報道。
1993年、近畿・中部の国立大学で女性障害者が子宮摘出手術されていたと報道。
1996年、優生保護法が母体保護法に改定され、「不良な子孫の出生防止」に関わる条文が削
除。1948-1996年の間に母体保護目的も含めて84万5千件の不妊手術が実施され、そ
のうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6千件以上に。そのうち7割
近くが女性への手術でした。
1997年、スウェーデンなど北欧でも強制不妊手術が行われていたことが問題になり、同国政
府は調査委員会を設置し、1999年から公的補償を開始します。日本の障害者・女性た
ちが厚生大臣に強制不妊手術の被害者に対する謝罪と補償を求める要望書を提出。
1998年、国連の人権委員会は日本政府に対し、強制不妊手術の対象となった人々の補償を
受ける権利を法律で規定するよう勧告します。
2003年、佐々木千津子さんは12月24日、秋葉忠利広島市長(当時)と広島市病院事業局長原田
康夫氏(当時)宛てに、「広島市民病院で受けさせられた違法な不妊手術について訴
えます!」との文章を提出。佐々木さんは、顔と実名を公表して訴えた最初の人で
す。
2004年、参議院厚生労働委員会で強制不妊手術についての質問に対し、当時の坂口厚生労働大
臣は「こういう法律があった以上、その対象になった人があることは紛れもない事
実」と答弁しつつも、政府答弁としては「特段の補償は考えておらず、実態調査も
行っていない」でした。
2010年、障害者制度改革推進会議「障害制度改革の推進のための基本的な方向 第一次意見」
序文に、強制不妊手術の事実が掲載。第16回推進会議の「障害のある女性について」
の議事にて、複数の委員から、強制不妊手術についての実態調査と補償の必要性、
障害者の性と生殖に関する権利の確立が提起されました。
2013年、8月8日、様々な後遺症に苦しんだ佐々木千津子さんが65歳で亡くなります。佐々木
さんは全国の様々な集会で自分の体験を話し、その不当性を訴えました。
2014年、国は障害者権利条約を批准。第23条には「障害者が他の者との平等を基礎として生殖
能力を保持すること」が明記されています。
2018年、1月30日宮城県の飯塚淳子(仮名)さんともう一人の知的障害のある女性が国に損害賠
償を求める訴えを起こします。飯塚さんは、生前の佐々木千津子さんと一緒に厚生省
へ行ったり、集まりの場に行ったりして親交がありました。
2019年、4月議員立法で被害者救済法が成立し、一人当たり320万円の一時金が支給されること
になります。
しかし、不妊手術を受けた記録が必要なこともあり、手術から長年経過し、それがな
かなか容易ではなく、一時金が認められた人の数は昨年12月現在で902人と少ないで
す。自分が背負わされ、台無しにされてしまった人生への補償には見合わない金額
や、謝罪方法に納得ができない人々による訴訟が続いていますし、声を上げられない
でいる人々もおられます。1月24日熊本地裁の判決が、そういった人々の後押しにな
れば良いです。
飯塚さんたちが提訴してから5年を迎えようとしている1月29日付けの京都新聞です。障害がある人もない人も、等しく結婚し、子どもを産み育てるという人間としての幸福を追求する当たり前の権利があります。今年は強制不妊訴訟が相次ぐそうですが、今回の熊本地裁の判決に続くよう願っています。被害者の人たちは、既に高齢です。せめて残りの人生を安らかな気持ちで過ごさせてあげたいです。国には上告しないで、被害者らに寄り添う政治をぜひ実践して頂きたいものです。
【2023年2月4日追記】
京都新聞によれば、国側は3日、旧法は憲法違反と認めて賠償を命じた1月23日の熊本地裁判決を不服として、福岡高裁に控訴したそうです。昨年、賠償命令を出した大阪と東京の高裁判決についても、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する民法の「除斥期間」を適用しなかったとして、両高裁判決について国は上告しています。国の姿勢に全く失望しかありません。
判決が下る前日と判決が下った24日の裁判に関する記事が載った京都新聞です(記事の上でクリックすると拡大して読めます)。
今年78歳の原告渡辺数美さんは、からだに障害があったことから、何の手術か知らないままに10歳前後の時に優生手術を受けさせられました。後に数美さんは母親から、医師から「体が不自由で病気のこぎゃん子どもがまた生まれたら困る」と言われて優生手術を受けさせたこと、さらに両方の睾丸を摘出することについて医師から説明を受けていないことを聞いているそうです。1955年頃の話でしょうか。
熊本県は「優生手術記録はすべて廃棄した」としていますが、熊本県と言えば、昨年12月5日京都新聞と熊本日日新聞のいずれも朝刊一面トップで大きく報道された戦時中における薬剤を用いた人体実験のニュースを連想してしまいます。1942年12月末から熊本県合志市のハンセン病療養所・菊池恵楓園で、入所者370名以上に対して、陸軍が「虹波」と名付けた薬剤を投与して人体実験を行い、9人が亡くなっていたことを示す文書25冊がこのほど開示されました。文書群からは動物実験さえ経ることなく、静脈注射、脊髄管腔内注射、吸入、座薬、服薬など投与方法を手あたり次第に試すなど異様なやり方をしていたことが明らかになったというものです。
当時のハンセン病患者への人を人とも思わぬ冷たいまなざしが伺えて背筋が凍る思いがします。同様に渡辺さんの医師の言葉からも障害者の人権を尊重しようという姿勢が感じられません。当時の風潮から疑問も罪悪感も抱くことなく対処し、言われるままにするしかなかった家族の様子が浮かびます。息子から責められたお母さまもさぞかし辛い思いをなさったことでしょう。
強制不妊手術等に関する歴史を簡単に書くと、
1940年、国民優生保護法が成立。誤った「優生思想」の考えの下、国は戦争に向けた国力を増
強しようと、当時遺伝すると考えられていた障害や病気の人に不妊手術を促し、国民
の質を高めようと考えました。
1948年、優生保護法成立。「不良な子孫の出生の防止」と母性の生命健康の保護を目的に、条
件付きで中絶を合法化。遺伝性疾患・ハンセン病について中絶・不妊手術を許可、強
制不妊手術を認めます。
1949年、中絶許可条件に経済的理由を追加するなど改定。
1952年、遺伝性以外の精神病・知的障害も強制不妊の対象とされます。中絶の審査制度廃止。
1968年、第2回例会で取り上げた佐々木千鶴子さん(広島市、生後すぐの高熱で脳性麻痺に)
が20歳の時、更生援護施設入所に際し、自分で生理の手当てができないと入所でき
ないと言われて、広島の公的病院でコバルト照射を受けました。この手段も方法も
「優生手術」の範囲を逸脱したものでした。
1989年、女性障害者への子宮摘出が、1982年岡山県の障害者施設で行われたと報道。
1993年、近畿・中部の国立大学で女性障害者が子宮摘出手術されていたと報道。
1996年、優生保護法が母体保護法に改定され、「不良な子孫の出生防止」に関わる条文が削
除。1948-1996年の間に母体保護目的も含めて84万5千件の不妊手術が実施され、そ
のうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6千件以上に。そのうち7割
近くが女性への手術でした。
1997年、スウェーデンなど北欧でも強制不妊手術が行われていたことが問題になり、同国政
府は調査委員会を設置し、1999年から公的補償を開始します。日本の障害者・女性た
ちが厚生大臣に強制不妊手術の被害者に対する謝罪と補償を求める要望書を提出。
1998年、国連の人権委員会は日本政府に対し、強制不妊手術の対象となった人々の補償を
受ける権利を法律で規定するよう勧告します。
2003年、佐々木千津子さんは12月24日、秋葉忠利広島市長(当時)と広島市病院事業局長原田
康夫氏(当時)宛てに、「広島市民病院で受けさせられた違法な不妊手術について訴
えます!」との文章を提出。佐々木さんは、顔と実名を公表して訴えた最初の人で
す。
2004年、参議院厚生労働委員会で強制不妊手術についての質問に対し、当時の坂口厚生労働大
臣は「こういう法律があった以上、その対象になった人があることは紛れもない事
実」と答弁しつつも、政府答弁としては「特段の補償は考えておらず、実態調査も
行っていない」でした。
2010年、障害者制度改革推進会議「障害制度改革の推進のための基本的な方向 第一次意見」
序文に、強制不妊手術の事実が掲載。第16回推進会議の「障害のある女性について」
の議事にて、複数の委員から、強制不妊手術についての実態調査と補償の必要性、
障害者の性と生殖に関する権利の確立が提起されました。
2013年、8月8日、様々な後遺症に苦しんだ佐々木千津子さんが65歳で亡くなります。佐々木
さんは全国の様々な集会で自分の体験を話し、その不当性を訴えました。
2014年、国は障害者権利条約を批准。第23条には「障害者が他の者との平等を基礎として生殖
能力を保持すること」が明記されています。
2018年、1月30日宮城県の飯塚淳子(仮名)さんともう一人の知的障害のある女性が国に損害賠
償を求める訴えを起こします。飯塚さんは、生前の佐々木千津子さんと一緒に厚生省
へ行ったり、集まりの場に行ったりして親交がありました。
2019年、4月議員立法で被害者救済法が成立し、一人当たり320万円の一時金が支給されること
になります。
しかし、不妊手術を受けた記録が必要なこともあり、手術から長年経過し、それがな
かなか容易ではなく、一時金が認められた人の数は昨年12月現在で902人と少ないで
す。自分が背負わされ、台無しにされてしまった人生への補償には見合わない金額
や、謝罪方法に納得ができない人々による訴訟が続いていますし、声を上げられない
でいる人々もおられます。1月24日熊本地裁の判決が、そういった人々の後押しにな
れば良いです。
飯塚さんたちが提訴してから5年を迎えようとしている1月29日付けの京都新聞です。障害がある人もない人も、等しく結婚し、子どもを産み育てるという人間としての幸福を追求する当たり前の権利があります。今年は強制不妊訴訟が相次ぐそうですが、今回の熊本地裁の判決に続くよう願っています。被害者の人たちは、既に高齢です。せめて残りの人生を安らかな気持ちで過ごさせてあげたいです。国には上告しないで、被害者らに寄り添う政治をぜひ実践して頂きたいものです。
【2023年2月4日追記】
京都新聞によれば、国側は3日、旧法は憲法違反と認めて賠償を命じた1月23日の熊本地裁判決を不服として、福岡高裁に控訴したそうです。昨年、賠償命令を出した大阪と東京の高裁判決についても、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する民法の「除斥期間」を適用しなかったとして、両高裁判決について国は上告しています。国の姿勢に全く失望しかありません。