いよいよ次の日曜日12日に「共に生きる会」の第5回目の催しをします。

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京都新聞10月30日付け市民版の催し案内

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京都新聞11月3日付け地域総合面でも掲載して頂きました(画像の上でクリックすると、拡大して読めます)。つい先日おもちゃ映画ミュージアムからのメールマガジンでもお知らせをしたのですが、なかなか一般の方に関心を持って貰いにくいテーマなのでしょうか、申し込みが伸びません。紅葉を楽しみたい季節でもありますし、明るく楽しくが好まれるのでしょう。それでも、「自分には関係ない」ように思えても、この問題は決して他人ごとではありません。お一人でも関心を持っていただけるように願っています。

街を歩けば手話でお話をされている方、どの様な事情かはパッと見た目にはわかりませんが、ヘルプマークを下げている人もよく見かけます。75年前の1948年の国会で全会一致で成立した「優生保護法」は、「不良な子孫の出生を防止する」目的で、特定の障害者や病者、社会にとって存在が好ましくない人々に対して、国家が子どもを産むことを禁止することを可能にした法律です。4年後に法改正し、さらに対象を拡大します。今、国を相手に人権回復の裁判を起こしている人々の中には、障害や病気がないにもかかわらず19歳の時に強制不妊手術をされた男性、同じく25~26歳ごろに手術をされた女性、知的障害がある人、統合失調症、脳性麻痺、聴覚障害、変形性関節症の人々ですが、最も多いのが聴覚障害者の人々です。

昨年10月手話を守った実在の校長、高橋潔さんを主人公にした映画『ヒゲの校長』の資料展示をしたのですが、広範囲から大勢の人々が見に来てくださいました。中でも聾者の姿を多く拝見し、正直「こんなに耳の不自由な方が世の中にはおられるのか」と驚きました。もう少し早い時代の生まれだったらと想像するだけでも鳥肌が立ちます。かといって、「今の時代に生まれて来て良かった」とも言えない現実があります。

今公開中の『月』は、2016年7月26日神奈川県相模原市で実際に起きた「障害者施設やまゆり園殺害事件」をもとにして描いています。ひところ某国会議員が「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算を付けるのは、『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります」と述べました。子どもを産むか、産まないかを「生産性」に置き換える考え方は如何なものでしょうか?

大量殺人を犯した植松 聖をモデルにした映画の中のさとくんのセリフが怖いです。
「やっと決心がつきました。頑張ります。この国のためです。意味のないものは僕が片づけます」。某国会議員と同じで「生産性がないものを排除する」という優生思想そのままの誤った考え方です。1996年の優生保護法改正の時、2019年4月国会で旧優生保護法一時金支給法が成立した時に、なぜ国を挙げてのこういう人権侵害を48年間も実行してきたのかを国に問い、社会全体で考えるべきでした。今も社会に深く根付いている優生思想を克服するにはどうしたらいいのでしょう。12日はそうしたことを考える場になればと思います。

2020(令和2)年11月、神戸の裁判で証言に立たれた日本障害者協議会代表藤井克徳さんの速記録によると、この時点での障害者総数は965万人(政府刊行障害者白書)。ここには認知症の人は含まれず、ロービジョン、難聴、難病、アルコールなどの依存症、吃音なども含めると人口の20%前後になるそうです。藤井さんは「こういう数字を前提にして、社会の設計を組んでいったり、個人の生活設計を組んでいく必要がある。実は、私たち人間というのは、人生の最終章をほとんど間違いなく障害状態をくぐりながら旅立っていくというふうに言っていいと思います。この問題は全ての人に関わる問題である」と述べておられます。

きみ江さん本
さて、これは11月12日にご覧頂く映画『凱歌』に登場する山内きみ江さん(1934年生まれ)について書かれた本。著者の片野田 斉さんはNHK映像取材部助手を経てニュース現場を経験し、ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバーとして活躍されています。今頃、ネットで上掲の『きみ江さん ハンセン病を生きて』(偕成社)出版後にきみ江さんと一緒に取材を受けられた内容が公開されているのに気付きました。それは、こちらです。

きみ江さんは元ハンセン病患者で、国の隔離政策により21歳の時に東京の東村山市にある国立療養所多磨全生園に入居した後、同じ入居者の山内 定さんから「四畳半にきてくれないか」とプロポーズされます。定さんは当時の規則で断種の手術を受けさせられました。麻酔もかけられずに、です。国から「子どもを作ってはいけない」とされた二人は、不自由な体で苦労を重ね想像もできないような大変な経験をされたにもかかわらず、映画のタイトルは、戦いの勝利を祝う喜びの歌『凱歌』なのです。その理由は、きみ江さんの前向きに生きようとする姿勢にあります。

映画を観ながら、涙をこぼしながらも、最後に温かい感動を覚えるのはきみ江さんの人間力に魅せられるからにほかなりません。「今、自分はどうしようもない…」と落ち込んでいる人がおられたら、映画をご覧になれば、きっと「へこたれるものか!」と力が湧いてくるでしょう。映画を通して国の誤った政策を知り、その惨さに怒りを覚え、同時に、それに負けないで日々気高く強く生きている人の生き様に「ならば、もう一度!」ときっと思わせてくれます。

きみ江さんの両手は肘まで、両足は付け根近くまで知覚麻痺、運動麻痺を起こしているので感覚がありません。なので火傷をした感覚も怪我をしても気が付かず、処置が遅れて。そんなことの繰り返しで右手の指はなくなり、左手の指は全て内側に曲がったまま固まっています。

ハンセン病は昔「らい病」と呼ばれていました。2000年以上前から差別を受けてきた伝染病です。1873年ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が発見した「らい菌」の感染により、顔、手足など人の目につく部分が変形したり不自由になります。両目を失って全盲になる人もいるそうです。人々が恐れる「らい菌」ですが、感染力はとても弱く、1943年アメリカで開発されたプロミンをはじめとする化学療法で治る病気になったにもかかわらず、日本の場合は強制隔離を規定した「らい予防法」が1996(平成8)年4月1日国会で廃止されるまで誤った政策が続き、元患者の人々は差別と偏見に晒されてきました。

11月8日夜、京都大学YMCA地塩寮で元ハンセン病患者の男性と妻を描いた戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『マイ・ラブ:絹子と春平』上映と監督の話が催されたことを知人から聞きました。会場でも私どもの催しを紹介して頂けたようで、主宰者の方の心遣いに感謝しています。もう少し先に知っていたら参加できたのですが…。本当に残念なのですが作品自体はNetflkixでの公開なので、契約していない私は現状では観ることが出来ません。けれども内容はこちらで紹介されていて、思いを知ることが出来ます。

『凱歌』も長い間国がやってきた「らい予防法」と「旧優生保護法」下での強制不妊手術という大きな過ちを体験者が訴えています。このような悲劇を繰り返さないために、勇気をもって語って下さる人々の言葉をぜひ聞いて頂きたいです。

この本を読むまで知らなかったのですが、ハンセン病は免疫力が十分でない乳児期の感染が最も多いのだそうです。きみ江さんが感染した時も乳幼児の時と思われていて、7年以内の潜伏期間を経て、首のうしろに500円玉ぐらいの白い斑点ができました。10歳ぐらいの時に手足にしびれを感じるようになり、熱や痛みを感じることがなかったので火傷や怪我の繰り返し。やがて神経痛が全身に広がります。どんどんできないことが増えていきますが、そんな時でもお母さんは心を鬼にして、自分のことは自分でやるように仕向けました。

21歳の時「らい病」ではないかと周囲も自分も思うようになって受診。医師から「らい病の一番危険な時に、家族と一緒に暮らし、赤ん坊もいるのに誰も症状が出ていないなら敢えて病院に行くことはない」と言われましたが、「近所の人に私の病気を知られたくない、保健所にだけは言わないでほしい」と依頼してその3日後に多磨全生園に向かいました。保健所の人が大勢来て家の中が真っ白になるほど消毒されて知れ渡り、それにより家族が差別されることを危惧したのです。入所して10日後の検査で無菌と診断されましたが、「らい予防法」には退所規定がなく、一度「らい病」と診断されたら死ぬ迄療養所で生きていくしかありませんでした。菌があろうとなかろうと関係なかったのです。全く酷い法律です。

きみ江さんは、お母さん譲りなのでしょうか、負けん気が強く、できないことがあるとできるまでやれば必ずできると諦めないで何回でも挑戦します。同じ入所者の定さんはその粘り強い根性に惹かれました。「患者の結婚は子孫を残さない」が条件だったので、その時余命4年を言われていた定さんが断種手術を受けましたが、この本ではその時の具体的なことは一切書かれていません。『凱歌』で初めて非人間的な扱いを受けたことを証言されています。

2001年5月ハンセン病に対する国の責任が問われた裁判の判決で熊本地方裁判所は「らい予防法にもとづくハンセン病政策は、患者の人権をはなはだしく侵害し、差別や偏見を大きくした」と指摘し、「少なくとも1960年から、ハンセン病は隔離が必要な病気ではなく、隔離自体が明らかに憲法違反であった」として、患者が「人間らしい生き方」を奪われたことへの国の責任の所在を明らかにしました。

さまざまな困難を経験したきみ江さんは社会復帰を果たし、縁を得て養女を貰い、生前の定さんは孫を抱くことも出来ました。今は多磨全生園内にできた花さき保育園の園児たちとの触れ合いを楽しみにされ、「生きるって、楽しくって」と話します。差別と偏見による悲劇を二度と繰り返して欲しくないとハンセン病の語り部として積極的に講演も引き受けておられます。

ドキュメンタリー映画『凱歌』もその一つです。お一人でも多くの方にご覧頂きたいです‼宜しくお願いいたします!!!!!

本
4月30日兵庫県の新長田で行われた学習会で主催された大矢 暹さんから購入した冊子『国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち-優生保護法の歴史と罪-』。作られたのは「優生保護法被害者兵庫弁護団」と大矢さんたち「優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会」。この冊子の終わりのほうに敬和学園大学人文社会科学研究所長の藤野 豊さんが書かれた「意見書」が載っていて、この問題の背景を知る手掛かりになりましたので、読みながら印象に残った箇所を紹介します。


1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンがラテン語で「良く生まれる」という意味の「eugenics(ユーゼニックス)」という言葉を作り出しました。彼は進化論で知られるダーウィンのいとこ。生物は環境に適応できる種が進化し、適応できないと滅び、そのことによって生物は進化してきたとダーウィンは説きます。それを人間社会に置き換えれば、優秀な人間は生き残り、劣った人間は滅びることになります。1877年日本に招かれたアメリカの動物学者エドワード・モースは社会ダーウィニズムという形でこの進化論を紹介し、文明開化の思想として普及していきます。

社会ダーウィニズムをもとに生まれた優生思想は様々な差別を正当化してきました。優生政策推進の中心人物永井潜が“eugenics”に「優生学」の訳語を使用し、社会運動家賀川豊彦、社会事業研究家海野幸徳、内務省衛生局技師氏原佐蔵らが、「悪質者」(彼等がいうのは、知的障害者、精神障害者、犯罪者、色情狂者、アルコール依存症、梅毒患者、犯罪者、被差別部落の住民ら)への不妊手術が必要だと主張します。

1915(大正4)年、ハンセン病療養所である東京の全生病院院長光田健輔(ハンセン病患者絶対隔離政策推進役)が男性ハンセン病患者への不妊手術を実施し、司法省はこれを黙認しました。優生思想は実施の段階に進み、社会運動家の中にも優生思想は広まっていきます。新婦人協会は花柳病男子結婚禁止法制定を求める運動を展開します。性感染症は民族の質をおとしめる病気だとして売春婦を国は厳しく管理するべきだとし、この考え方は戦争中の慰安婦制度の発想に繋がります。

ドイツで1933年1月にヒットラー政権が成立すると遺伝性疾患子孫防止法を公布し、遺伝性と断定された障害者や病者に強制不妊手術を開始。さらに1939年9月にT4計画を発動して、精神障害者、知的障害者、さらにユダヤ人、ロマ、同性愛者らを大量虐殺していきました。「T4作戦」について、最初に掲げた本の中で日本障害者協議会代表の藤井克徳さんは「価値なき生命の抹殺を容認する作戦」と翻訳されています(78頁)。

ドイツに刺激された日本は、戦争へと突き進む中、長期的な戦争継続のために弱い国民を作らないよう優生政策の具体化を進めていきます。1940(昭和15)年国民体力法と共に国民優生法が成立し、「公益」を理由に遺伝性とみなされた障害者、病者への不妊手術が実施できることになりました。ハンセン病患者は国民優生法の対象とはならなかったのですが「特殊な病気である」という理由で国民優生法を拡大解釈して不妊手術は継続されました。

敗戦後の日本は経済が混乱し、食糧難に直面。人口増殖から人口抑制へ政策の展観が必至、妊娠中絶(当時は原則違法)も横行していました。産婦人科医の太田典礼(衆議院議員、日本社会党)、加藤シズエ(衆議院議員、日本社会党)、福田昌子(衆議院議員、日本社会党)、熊本県医師会長で産婦人科医の谷口弥三郎(参議院議員、民主党)らが中心になって、妊娠中絶手術の適用を拡大し、「悪質の遺伝防止」という「公益」を理由にした強制的な不妊手術を可能にする新法としての優生保護法制定へ動き出します。

1947年2月の帝国議会衆議院本会議で河合厚相は前年11月3日に公布された日本国「憲法の本則に基きまして、個性尊重の時代になって来ましたので、強制的に断種その他のことはただいまやる考えはもちません」と答えています。一方で、厚生省人口問題研究所では、妊娠中絶の問題、国民優生法の運用の問題が議論されます。委員には戦前から優生政策を主張してきた医学者と共に日本社会党衆議院議員加藤シヅエが名を連ねています。

1948年6月芦田均内閣の下で開かれた第2回国会で与党の民主党・日本社会党・国民協同党、野党の民主自由党、参議院の緑風会による超党派の議員立法案として優生保護法案が提出されました。第1条で「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と明記。第4条で医師は患者が別表で示された疾患に罹っていることを確認し、その疾患の遺伝を防止するため、公益上必要であると認める時、都道府県優性保護委員会に不妊手術の適否の審査を申請できると規定しました。

その別表には56の疾患が具体的に記され、それに該当する障害者や病者は、本人の意思に関係なく、優生保護委員会が許可すれば不妊手術を実施されることになりました。この決定に不服があれば中央優生委員会に再審査を求めたり、再審査の結果にも不服があれば訴訟を起こすこともできるという条文も添えてありますが、現実として当事者たちにとって高いハードルだったことでしょう。

優性保護法案第20条21条では、都道府県ごとに「遺伝その他優生保護法上必要な知識の普及を図って、不良な子孫の出生を防止するため」と明記し、優生思想の国民への普及も法の課題としています。

つい先日の「優生保護法問題の早期・全面解決を求める11.1集会」で体験を語って下さった中にも、家族から不妊手術をするよう強いられたことで、長い間家族を恨んでいたという被害者の話がありました。国の方針のもと都道府県が優生思想普及を推し進めていたので、例えば聾者は子どもを持つべきではないと家族から勧められて不妊手術を受けた人もおられました。

審議は1948年6月19日参議院厚生委員会で開始され、谷口弥三郎が法案説明に立ち、「先天性の遺伝病者の出生を抑制することが、国民の逆淘汰を防止する点からいって、極めて必要」、その上で「母性保護の見地から合法的な妊娠中絶を認めようとするもの」だと付言しています。感染症であるハンセン病患者と配偶者を対象にすることへの疑問や強制不妊手術の是非等などの質問もなされず、法案は22日全会一致で可決されました。

続いて6月24日衆議院厚生委員会で審議が開始され、日本社会党の福田昌子が法案説明に立ち、不良分子の出生防止と母性保護のために妊娠中絶の容認の両方が法案の目的だと説明。27日には谷口弥三郎が説明に立ち、「新憲法のもとにおきましては、人権尊重の意味から申しましても、母性の健康を保護するということがきわめて必要である」として人工妊娠中絶の拡張の必要を訴えますが、彼が考える日本国憲法が尊重する基本的人権には女性の人権は含めていても、遺伝性とされた障害者や病者の人権は範囲外に置かれていました。ここでもハンセン病を対象にしたことへの疑問や強制不妊手術の是非が議論されず、28日に同委員会、続く本会議でも全会一致で可決され、「優生保護法」が成立しました。

1949年5月12、13日と優生保護法改正案が審議され、13日に本会議で過半数の賛成で可決しました。その内容は、妊娠中絶手術の根拠に経済的理由が付け加えられたことと、強制不妊手術の申請を医師の任意判定から義務化するという2点です。続く22日衆議院厚生委員会で日本社会党の堤ツル代は「民族の衰微」を防ぐために優生保護法の強化、拡大を求める賛成演説を行い、当日の本会議でも異議なく可決されました。

京都学・歴彩館の保存されているファイルに1949(昭和24)年10月24日付け厚生省公衆衛生局長から各都道府県知事宛通達「優生保護法第十条の規定による強制優生手術の実施について」が保存されています。医師が「公益上必要である」と認めて強制優生手術を行うに当たっては、手術を受けるべき者がこれを拒否した場合、身体を拘束したり、麻酔を打ったり、欺いても良いとの通達です。医師の間に広がる本人の意思によらない不妊手術は基本的人権の侵害になるのではないかという不安に対する回答で、医師に躊躇わずに手術をするよう求めています。通達文最後は「その上優生手術は一般に方法が容易であって格別危険を伴うものではないのであるから、前に述べたような方法により、手術を受ける者の意思に反してこれを実施することも何等憲法の保障と反するものではない」で締め括っています。人権への配慮はかけらもありません。この年度の強制不妊手術実施数は132名でした。

その後も谷口弥三郎や福田昌子は強制不妊手術数が少ないことを問題視し、その数を増やす努力を求めます。谷口らの議員立法で審議され、優生保護法は1952年4月に改正されます。それまで医師が都道府県優生保護審議会へ申請していた妊娠中絶手術が医師の判断だけで済むようになっただけでなく、遺伝性ではない精神障害者や知的障害者に対しても保護義務者の同意と都道府県郵政審議会の決定があれば不妊手術が可能になりました。その対象には犯罪者や浮浪者、街の売春婦たちも含まれました。

1955年、全国の強制不妊手術件数は1362名でピークに。
1968年、佐々木千津子さんが、広島の病院にて法律で禁止された放射線照射で不妊手術を受けさせられます。その手術が子どもをできなくなるするための手術だったことを知らなかった佐々木さんは、子ども好きだったこともあり、実名と顔を出してこの悔しさを訴え続けました。後遺症でもずっと苦しまれました。
1971年、滋賀県が娘への強制不妊手術を拒む親を「無知と盲愛」と公文書に記載しています。

1994(平成6)年国際人口開発会議(カイロ会議)でDPI女性障害者ネットワークが日本の優生保護法を告発し、それが国際的に報道されて、翌年の世界女性会議(北京会議)で性と生殖に関する健康・権利が採択され、日本の優生保護法が障害者への差別法だと批判する国際世論が高まります。らい予防法についてもハンセン病患者への差別法だと国際的な批判も高まり、1996年4月1日らい予防法が国会で廃止され、優生保護法からハンセン病患者と配偶者への不妊手術、妊娠中絶手術を規定した条項も削除されました。時の厚生大臣菅直人が隔離政策と不妊手術を実施したことに対する謝罪と反省の言葉を述べたことは今も記憶にあります。

1996(平成8)年6月26日優生保護法は母体保護法に改正されました。この時に「不良な子孫」の出生防止に関する条文は全て削除されましたが、改正に関する審議は一切なされず、優生保護法の何が問題なのかも議論されることはありませんでした。私が参考にして書いている「意見書」を書かれた藤野 豊先生は、「もし、改正について議論を深めれば、50年近くの長きにわたって、超党派の議員立法として成立したこの法の下で、「公益」を理由に、特定の障害者、病者に対し国家が重大な人権侵害を続けてきたことを国会も認めねばならず、与野党ともにそれを回避したとしか考えられない」と書いておられます。

1997年、市民団体「優生手術に対する謝罪を求める会」が発足し、宮城県の飯塚淳子さん(仮名)が被害を名乗り出ます。
1998年、国連人権委員会は日本政府に対し「法律が強制不妊の対象となった人たちの保障を受ける権利を規定していないことを遺憾に思い、必要な法的措置がとられることを勧告」しますが、未だに実現していません。2016年にも国連女性差別撤廃委員会が日本政府に法的救済を勧告しています。

2018年1月、宮城県で初の国家賠償請求訴訟。この裁判を契機にその後全国各地で訴訟が起こり、12の地域で38人の原告が、国の責任を問うて裁判に立ちあがりました。残念ながら、そのうち5名が無念のうちに亡くなっています。
2019年4月「旧優生保護法一時金支給法」ができます。申請し認定されれば一人320万円が支給される法律ですが、この時も、優生思想を無くすアピールはしていません。2023年11月1日の集会の時点で、「一時金を受け取ったのは、たったの4%足らず」と参加した国会議員が発表しています。

藤野 豊さんは「この訴訟は、日本国憲法に規定された基本的人権を奪われてきたひとびとの人権を回復させる、まさに人権裁判である。裁判所に対しては、原告の訴えに耳を傾け、原告の受けた人権侵害に向き合い、原告に理解ある判断をしていただくことを期待する」と「意見書」の最後に書いておられます。全く同感です。

少し前のことになりますが、好天に恵まれた10月22日、京都で三大祭の一つ「時代祭」が行われ、豪華絢爛な行列を観ようと約6万8千人の人出だったそうです。平安遷都1100年と平安神宮創建を記念して1895(明治28)年に始まり、数えること今年で116回目。

そんな賑わいの向こうで、京都市下京区の「ひと・まち交流館 京都」で集いがあると知って、参加してきました。タイトルは「優生保護法による被害者とともに歩む大学習会」。講師が京都新聞記者の森敏之さんで、前回のブログで紹介したように11月12日私どもの事業「誰もがその人らしく生きられる社会をめざして~映画『凱歌』から人の尊厳を考える~」で講演をお願いしてる方でもあり、予習を兼ねて行ってきました。

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13時半からの開会のあいさつは、京都府聴覚障害者協会長の吉田さん。続いて「優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会」の大矢暹さんが対談相手になって、大阪、愛知、兵庫で国賠訴訟をされている当事者6名が自分たちの体験を証言されました。これまでの集会では、ご当人たちは挨拶をされる程度だったそうですが、聞き手の大矢さんとの信頼関係が築かれていたゆえでしょう、話しづらい体験を皆さんの前でお話しくださいました。
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その後は、森記者さんによる「優生保護法下の不妊手術 京都府内の被害実態と現在の課題」と題した講演がありました。時間の関係で、11月12日はこの時より詳しくお話しくださる見込みです。
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用意された資料の中に、京都新聞の2019年2月14日から22日まで7回にわたって連載された『隠れた刃 証言優生保護法』のスクラップが綴じてありました。思い返してみても読んだ記憶が正直なかったです。2015年に開館したミュージアムの慣れない運営で精一杯で、この問題が目に留まらなかったのだと思います。

それが、2021年2月映画館でドキュメンタリー映画『凱歌』を見て、元ハンセン病患者の人々が誤った隔離政策により人生を台無しにされただけでなく、国立の療養所内で結婚する条件として不妊手術を強制されていた人権無視も甚だしい事実を知りました。それから、この理不尽な問題に関心を持つようになりました。先ずは何があったかを知ることが大切だなぁとその時思ったのです。知らないままだと、同じような過ちを姿を変えて繰り返すかもしれません。

今現在、強制不妊手術問題で国に損害賠償を求めて裁判を起こしている人は38人おられ、10月25日にも仙台高裁で裁判が行われ、小林久起裁判長は「旧法は違憲」との判決を下し、合計3300万円を宮城県の千葉広和さん(75歳)と80代の男性に賠償するよう申し渡しました。6月の仙台と札幌の高裁では残念な結果でしたが、国に賠償するよう高裁判決が出たのは、大阪、東京、札幌、大阪、そして仙台と5件目です。
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これまでの裁判で原告が敗訴した場合は、20年の「除斥期間」がネックになっていましたが、この裁判では、正義・公平の観点から「除斥期間」ではなく「時効」の考え方を採用しているのが画期的です。「国は長期間、優生手術の拡大を目的とした政策を継続し障害者への差別や偏見を正当化してきた」とし、被害者が損害賠償請求をすることが困難だったと認定しました。これまでの裁判でも、除斥期間20年の間に被害者らが、それを自ら証明することの困難さを訴えておられましたが、その声が届いたことが良かったです。

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11月1日に、東京の星稜会館で「優生保護法問題の早期・全面解決を求める11.1集会」が行われるとお知らせを受けて、zoomで視聴しました。

その折メモしたものを読むと、自民党、れいわ新撰組、立憲民主党、日本共産党所属の衆参議員が次々登壇して挨拶し、「最高裁の判断前に、国は謝罪と補償をすべきだと政府に求めていきたい」「議員立法であったことから、国会自らが全面解決に向けて動くべきだ」「(国は)悪あがきは止めるべきだ」「一時金を受けたのはたったの4%足らず」「立法府が犯した罪です。法律はなくなっても優生思想はなくならない。障害当事者議員として全面解決に向けて取り組む」と与野党問わず、国に対して一日も早い解決をするよう取り組んでいく姿勢を述べておられました。大勢の人が注視していた中での発言ですので、口先だけに終わらず実行していただきたいです。

この日兵庫の小林寶二さんは体調不良でメッセージが披露されましたが、「気持ちが休まることはない」と仰っていました。一緒に戦っておられた奥様は既に泉下の人になっています。皆さん高齢なので、尊厳を守る戦いの解決は急がねばなりません。東京の西 スミ子さんは、前日も裁判で疲労のため代読で「国へ謝罪を求めている。それは権利だと思っている。早い全面解決を望み、国は苦しみを認め、多くの被害者を救って下さい」と述べられました。神戸の鈴木由美さんは「小さい時から差別を受けてきた。障害者は人間として扱われなかった。岸田首相にはいいかげんケリを付けて欲しい」と述べ、彼女を支援してきた参院議員は「彼女の尊厳を守るために闘っている。国は多くの障害者に望まない人生を強いた」と述べられましたが、この言葉に尽きると私も思います。
2023年10月12日森敏之さんと水俣裁判についての記事

9月13日夕刊で載っていた北三郎さんも発言され「14歳の時施設の先生に騙されて不妊手術を受けさせられた。10月25日の宮城県の裁判が歴史的な判決をしてくれたが、国が上告すれば最後まで闘う」と気丈に話されました。一連の裁判の最初になった飯塚淳子さんには仙台から市議会議員3名が駆けつけていました。「障害者ではなかったのに強制不妊手術を受けさせられ、優生手術に対する被害を訴えてきた。命あるうちの全面解決を望む」と発言されました。同じく仙台裁判の原告佐藤由美さんの義理のお姉さんは、「(義理の妹は)麻酔の後遺症による障害で15歳の時に強制不妊手術を受けさせられた。25日の裁判で、小林裁判長が『権利の乱用にもあたる』と判決された時、小林裁判長は私と義理の妹に向けて言っておられるように思われた。判決内容は原告民らが望む全てです。6月の裁判が同じ判決であれば良かった。国が除斥期間が20年なんて言わないで」と同じ仙台高裁で明暗を分けた判決への思いを述べておられました。

名古屋の長島ご夫妻は「家族から子どもを産むと幸せになれないと言われた。子どもがいないことであざわられ、辛くて悔しい思いをしてきた。私の人生、私の体を返して下さい。差別のない不幸の無い社会をめざして私たちはこれからも闘っていきます」と述べられました。今年に入って、徳島、大分で裁判が起こされ、札幌でも石狩の人が裁判を起こしています。神戸の川野正子さんと山川百恵さんは今年に入ってから神戸地裁に提訴。川野さんは「二人目を生んだときに手術を受けたが、何の説明もなかった」と証言し、山川さんは「双子の妹も同じ手術を受けた」と証言。今年福岡地裁に提訴した日田梅さんは「夫は聞こえる親族の言いなりになって結婚前に手術をしろと言われて不妊手術をしたが、当たり前の幸せを奪われて、本当に悔しい」と胸の内を吐いておられました。

全国優生保護法被害者弁護団共同代表の新里宏二弁護士は「10月25日仙台高裁の判決は『権利乱用だよ。全体を解決しろよ』というメッセージだった。不条理が許されて良いのか!被害者の声が社会を変える。被害の事実と命あるうちの解決、名誉回復が一番。岸田首相が被害者に会って謝罪することが求められる」と話されました。

京都からは、まだ提訴した人はおられませんが、10月22日の「優生保護法による被害者とともに歩む京都の会」設立の決意表明をしたことが共同代表の村田さんからありました。

要請書104_0001
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続いて“優生保護法下における強制不妊手術について考える議員連盟”宛て要請書を自民党衆議院議員の橋本さんに手渡しされました。さらに、連絡会事務局の方から、9月11日に始めた署名「国が放置してきた優生保護法の被害に対し最高裁判所に人権の砦として正義・公平の理念にもとづく判決を求めます」について「2週間足らずで3万134筆集まった。来年3月第3期には100万筆をトラックで運びたい」と話しがあり、「原告の訴えを知って貰うことが大切だ。障害者が排除されない社会、優生思想をなくすことを目指す」と力強い言葉がありました。IMG_20231103_0001
この署名活動、皆様も署名を集めてお送りください。この後下掲アピールを採択して閉会に。
アピール
集会参加の皆さんは官邸前までアピール行動をされました。
強制不妊(京都新聞2023.11
上掲は集会の翌日、11月2日付けの京都新聞です。北三郎さんらが、要望書を手渡しされている写真が載っています。そしてその上には、5件に及ぶ最高裁上告審について、全15人の裁判官による大法廷での審理をすることになったことが載っています。この大法廷の審議に注目していきましょう。

私の感触では、この問題に対する一般の人々の関心が高いとは言い切れないと感じています。まだまだ他人ごとのように思っておられるような気がしています。12日の催しについても、正直申し込みは少ないです。けれども、自分の人生をどうするかの決定は他人、国がすることではなく、自分で決めたいと思うのは誰しも同じだと思います。まだまだ優生思想はくすぶっています。社会全体が意識を向上させ、障害や病気の有無や、性別、年齢、立場を超えて、誰もがその人らしく生きていける社会になるようみんなで考えて作っていきましょう。



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