いよいよ次の日曜日12日に「共に生きる会」の第5回目の催しをします。
京都新聞10月30日付け市民版の催し案内
京都新聞11月3日付け地域総合面でも掲載して頂きました(画像の上でクリックすると、拡大して読めます)。つい先日おもちゃ映画ミュージアムからのメールマガジンでもお知らせをしたのですが、なかなか一般の方に関心を持って貰いにくいテーマなのでしょうか、申し込みが伸びません。紅葉を楽しみたい季節でもありますし、明るく楽しくが好まれるのでしょう。それでも、「自分には関係ない」ように思えても、この問題は決して他人ごとではありません。お一人でも関心を持っていただけるように願っています。
街を歩けば手話でお話をされている方、どの様な事情かはパッと見た目にはわかりませんが、ヘルプマークを下げている人もよく見かけます。75年前の1948年の国会で全会一致で成立した「優生保護法」は、「不良な子孫の出生を防止する」目的で、特定の障害者や病者、社会にとって存在が好ましくない人々に対して、国家が子どもを産むことを禁止することを可能にした法律です。4年後に法改正し、さらに対象を拡大します。今、国を相手に人権回復の裁判を起こしている人々の中には、障害や病気がないにもかかわらず19歳の時に強制不妊手術をされた男性、同じく25~26歳ごろに手術をされた女性、知的障害がある人、統合失調症、脳性麻痺、聴覚障害、変形性関節症の人々ですが、最も多いのが聴覚障害者の人々です。
昨年10月手話を守った実在の校長、高橋潔さんを主人公にした映画『ヒゲの校長』の資料展示をしたのですが、広範囲から大勢の人々が見に来てくださいました。中でも聾者の姿を多く拝見し、正直「こんなに耳の不自由な方が世の中にはおられるのか」と驚きました。もう少し早い時代の生まれだったらと想像するだけでも鳥肌が立ちます。かといって、「今の時代に生まれて来て良かった」とも言えない現実があります。
今公開中の『月』は、2016年7月26日神奈川県相模原市で実際に起きた「障害者施設やまゆり園殺害事件」をもとにして描いています。ひところ某国会議員が「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算を付けるのは、『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります」と述べました。子どもを産むか、産まないかを「生産性」に置き換える考え方は如何なものでしょうか?
大量殺人を犯した植松 聖をモデルにした映画の中のさとくんのセリフが怖いです。
「やっと決心がつきました。頑張ります。この国のためです。意味のないものは僕が片づけます」。某国会議員と同じで「生産性がないものを排除する」という優生思想そのままの誤った考え方です。1996年の優生保護法改正の時、2019年4月国会で旧優生保護法一時金支給法が成立した時に、なぜ国を挙げてのこういう人権侵害を48年間も実行してきたのかを国に問い、社会全体で考えるべきでした。今も社会に深く根付いている優生思想を克服するにはどうしたらいいのでしょう。12日はそうしたことを考える場になればと思います。
2020(令和2)年11月、神戸の裁判で証言に立たれた日本障害者協議会代表藤井克徳さんの速記録によると、この時点での障害者総数は965万人(政府刊行障害者白書)。ここには認知症の人は含まれず、ロービジョン、難聴、難病、アルコールなどの依存症、吃音なども含めると人口の20%前後になるそうです。藤井さんは「こういう数字を前提にして、社会の設計を組んでいったり、個人の生活設計を組んでいく必要がある。実は、私たち人間というのは、人生の最終章をほとんど間違いなく障害状態をくぐりながら旅立っていくというふうに言っていいと思います。この問題は全ての人に関わる問題である」と述べておられます。
さて、これは11月12日にご覧頂く映画『凱歌』に登場する山内きみ江さん(1934年生まれ)について書かれた本。著者の片野田 斉さんはNHK映像取材部助手を経てニュース現場を経験し、ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバーとして活躍されています。今頃、ネットで上掲の『きみ江さん ハンセン病を生きて』(偕成社)出版後にきみ江さんと一緒に取材を受けられた内容が公開されているのに気付きました。それは、こちらです。
きみ江さんは元ハンセン病患者で、国の隔離政策により21歳の時に東京の東村山市にある国立療養所多磨全生園に入居した後、同じ入居者の山内 定さんから「四畳半にきてくれないか」とプロポーズされます。定さんは当時の規則で断種の手術を受けさせられました。麻酔もかけられずに、です。国から「子どもを作ってはいけない」とされた二人は、不自由な体で苦労を重ね想像もできないような大変な経験をされたにもかかわらず、映画のタイトルは、戦いの勝利を祝う喜びの歌『凱歌』なのです。その理由は、きみ江さんの前向きに生きようとする姿勢にあります。
映画を観ながら、涙をこぼしながらも、最後に温かい感動を覚えるのはきみ江さんの人間力に魅せられるからにほかなりません。「今、自分はどうしようもない…」と落ち込んでいる人がおられたら、映画をご覧になれば、きっと「へこたれるものか!」と力が湧いてくるでしょう。映画を通して国の誤った政策を知り、その惨さに怒りを覚え、同時に、それに負けないで日々気高く強く生きている人の生き様に「ならば、もう一度!」ときっと思わせてくれます。
きみ江さんの両手は肘まで、両足は付け根近くまで知覚麻痺、運動麻痺を起こしているので感覚がありません。なので火傷をした感覚も怪我をしても気が付かず、処置が遅れて。そんなことの繰り返しで右手の指はなくなり、左手の指は全て内側に曲がったまま固まっています。
ハンセン病は昔「らい病」と呼ばれていました。2000年以上前から差別を受けてきた伝染病です。1873年ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が発見した「らい菌」の感染により、顔、手足など人の目につく部分が変形したり不自由になります。両目を失って全盲になる人もいるそうです。人々が恐れる「らい菌」ですが、感染力はとても弱く、1943年アメリカで開発されたプロミンをはじめとする化学療法で治る病気になったにもかかわらず、日本の場合は強制隔離を規定した「らい予防法」が1996(平成8)年4月1日国会で廃止されるまで誤った政策が続き、元患者の人々は差別と偏見に晒されてきました。
11月8日夜、京都大学YMCA地塩寮で元ハンセン病患者の男性と妻を描いた戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『マイ・ラブ:絹子と春平』上映と監督の話が催されたことを知人から聞きました。会場でも私どもの催しを紹介して頂けたようで、主宰者の方の心遣いに感謝しています。もう少し先に知っていたら参加できたのですが…。本当に残念なのですが作品自体はNetflkixでの公開なので、契約していない私は現状では観ることが出来ません。けれども内容はこちらで紹介されていて、思いを知ることが出来ます。
『凱歌』も長い間国がやってきた「らい予防法」と「旧優生保護法」下での強制不妊手術という大きな過ちを体験者が訴えています。このような悲劇を繰り返さないために、勇気をもって語って下さる人々の言葉をぜひ聞いて頂きたいです。
この本を読むまで知らなかったのですが、ハンセン病は免疫力が十分でない乳児期の感染が最も多いのだそうです。きみ江さんが感染した時も乳幼児の時と思われていて、7年以内の潜伏期間を経て、首のうしろに500円玉ぐらいの白い斑点ができました。10歳ぐらいの時に手足にしびれを感じるようになり、熱や痛みを感じることがなかったので火傷や怪我の繰り返し。やがて神経痛が全身に広がります。どんどんできないことが増えていきますが、そんな時でもお母さんは心を鬼にして、自分のことは自分でやるように仕向けました。
21歳の時「らい病」ではないかと周囲も自分も思うようになって受診。医師から「らい病の一番危険な時に、家族と一緒に暮らし、赤ん坊もいるのに誰も症状が出ていないなら敢えて病院に行くことはない」と言われましたが、「近所の人に私の病気を知られたくない、保健所にだけは言わないでほしい」と依頼してその3日後に多磨全生園に向かいました。保健所の人が大勢来て家の中が真っ白になるほど消毒されて知れ渡り、それにより家族が差別されることを危惧したのです。入所して10日後の検査で無菌と診断されましたが、「らい予防法」には退所規定がなく、一度「らい病」と診断されたら死ぬ迄療養所で生きていくしかありませんでした。菌があろうとなかろうと関係なかったのです。全く酷い法律です。
きみ江さんは、お母さん譲りなのでしょうか、負けん気が強く、できないことがあるとできるまでやれば必ずできると諦めないで何回でも挑戦します。同じ入所者の定さんはその粘り強い根性に惹かれました。「患者の結婚は子孫を残さない」が条件だったので、その時余命4年を言われていた定さんが断種手術を受けましたが、この本ではその時の具体的なことは一切書かれていません。『凱歌』で初めて非人間的な扱いを受けたことを証言されています。
2001年5月ハンセン病に対する国の責任が問われた裁判の判決で熊本地方裁判所は「らい予防法にもとづくハンセン病政策は、患者の人権をはなはだしく侵害し、差別や偏見を大きくした」と指摘し、「少なくとも1960年から、ハンセン病は隔離が必要な病気ではなく、隔離自体が明らかに憲法違反であった」として、患者が「人間らしい生き方」を奪われたことへの国の責任の所在を明らかにしました。
さまざまな困難を経験したきみ江さんは社会復帰を果たし、縁を得て養女を貰い、生前の定さんは孫を抱くことも出来ました。今は多磨全生園内にできた花さき保育園の園児たちとの触れ合いを楽しみにされ、「生きるって、楽しくって」と話します。差別と偏見による悲劇を二度と繰り返して欲しくないとハンセン病の語り部として積極的に講演も引き受けておられます。
ドキュメンタリー映画『凱歌』もその一つです。お一人でも多くの方にご覧頂きたいです‼宜しくお願いいたします!!!!!
京都新聞10月30日付け市民版の催し案内
京都新聞11月3日付け地域総合面でも掲載して頂きました(画像の上でクリックすると、拡大して読めます)。つい先日おもちゃ映画ミュージアムからのメールマガジンでもお知らせをしたのですが、なかなか一般の方に関心を持って貰いにくいテーマなのでしょうか、申し込みが伸びません。紅葉を楽しみたい季節でもありますし、明るく楽しくが好まれるのでしょう。それでも、「自分には関係ない」ように思えても、この問題は決して他人ごとではありません。お一人でも関心を持っていただけるように願っています。
街を歩けば手話でお話をされている方、どの様な事情かはパッと見た目にはわかりませんが、ヘルプマークを下げている人もよく見かけます。75年前の1948年の国会で全会一致で成立した「優生保護法」は、「不良な子孫の出生を防止する」目的で、特定の障害者や病者、社会にとって存在が好ましくない人々に対して、国家が子どもを産むことを禁止することを可能にした法律です。4年後に法改正し、さらに対象を拡大します。今、国を相手に人権回復の裁判を起こしている人々の中には、障害や病気がないにもかかわらず19歳の時に強制不妊手術をされた男性、同じく25~26歳ごろに手術をされた女性、知的障害がある人、統合失調症、脳性麻痺、聴覚障害、変形性関節症の人々ですが、最も多いのが聴覚障害者の人々です。
昨年10月手話を守った実在の校長、高橋潔さんを主人公にした映画『ヒゲの校長』の資料展示をしたのですが、広範囲から大勢の人々が見に来てくださいました。中でも聾者の姿を多く拝見し、正直「こんなに耳の不自由な方が世の中にはおられるのか」と驚きました。もう少し早い時代の生まれだったらと想像するだけでも鳥肌が立ちます。かといって、「今の時代に生まれて来て良かった」とも言えない現実があります。
今公開中の『月』は、2016年7月26日神奈川県相模原市で実際に起きた「障害者施設やまゆり園殺害事件」をもとにして描いています。ひところ某国会議員が「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算を付けるのは、『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります」と述べました。子どもを産むか、産まないかを「生産性」に置き換える考え方は如何なものでしょうか?
大量殺人を犯した植松 聖をモデルにした映画の中のさとくんのセリフが怖いです。
「やっと決心がつきました。頑張ります。この国のためです。意味のないものは僕が片づけます」。某国会議員と同じで「生産性がないものを排除する」という優生思想そのままの誤った考え方です。1996年の優生保護法改正の時、2019年4月国会で旧優生保護法一時金支給法が成立した時に、なぜ国を挙げてのこういう人権侵害を48年間も実行してきたのかを国に問い、社会全体で考えるべきでした。今も社会に深く根付いている優生思想を克服するにはどうしたらいいのでしょう。12日はそうしたことを考える場になればと思います。
2020(令和2)年11月、神戸の裁判で証言に立たれた日本障害者協議会代表藤井克徳さんの速記録によると、この時点での障害者総数は965万人(政府刊行障害者白書)。ここには認知症の人は含まれず、ロービジョン、難聴、難病、アルコールなどの依存症、吃音なども含めると人口の20%前後になるそうです。藤井さんは「こういう数字を前提にして、社会の設計を組んでいったり、個人の生活設計を組んでいく必要がある。実は、私たち人間というのは、人生の最終章をほとんど間違いなく障害状態をくぐりながら旅立っていくというふうに言っていいと思います。この問題は全ての人に関わる問題である」と述べておられます。
さて、これは11月12日にご覧頂く映画『凱歌』に登場する山内きみ江さん(1934年生まれ)について書かれた本。著者の片野田 斉さんはNHK映像取材部助手を経てニュース現場を経験し、ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバーとして活躍されています。今頃、ネットで上掲の『きみ江さん ハンセン病を生きて』(偕成社)出版後にきみ江さんと一緒に取材を受けられた内容が公開されているのに気付きました。それは、こちらです。
きみ江さんは元ハンセン病患者で、国の隔離政策により21歳の時に東京の東村山市にある国立療養所多磨全生園に入居した後、同じ入居者の山内 定さんから「四畳半にきてくれないか」とプロポーズされます。定さんは当時の規則で断種の手術を受けさせられました。麻酔もかけられずに、です。国から「子どもを作ってはいけない」とされた二人は、不自由な体で苦労を重ね想像もできないような大変な経験をされたにもかかわらず、映画のタイトルは、戦いの勝利を祝う喜びの歌『凱歌』なのです。その理由は、きみ江さんの前向きに生きようとする姿勢にあります。
映画を観ながら、涙をこぼしながらも、最後に温かい感動を覚えるのはきみ江さんの人間力に魅せられるからにほかなりません。「今、自分はどうしようもない…」と落ち込んでいる人がおられたら、映画をご覧になれば、きっと「へこたれるものか!」と力が湧いてくるでしょう。映画を通して国の誤った政策を知り、その惨さに怒りを覚え、同時に、それに負けないで日々気高く強く生きている人の生き様に「ならば、もう一度!」ときっと思わせてくれます。
きみ江さんの両手は肘まで、両足は付け根近くまで知覚麻痺、運動麻痺を起こしているので感覚がありません。なので火傷をした感覚も怪我をしても気が付かず、処置が遅れて。そんなことの繰り返しで右手の指はなくなり、左手の指は全て内側に曲がったまま固まっています。
ハンセン病は昔「らい病」と呼ばれていました。2000年以上前から差別を受けてきた伝染病です。1873年ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が発見した「らい菌」の感染により、顔、手足など人の目につく部分が変形したり不自由になります。両目を失って全盲になる人もいるそうです。人々が恐れる「らい菌」ですが、感染力はとても弱く、1943年アメリカで開発されたプロミンをはじめとする化学療法で治る病気になったにもかかわらず、日本の場合は強制隔離を規定した「らい予防法」が1996(平成8)年4月1日国会で廃止されるまで誤った政策が続き、元患者の人々は差別と偏見に晒されてきました。
11月8日夜、京都大学YMCA地塩寮で元ハンセン病患者の男性と妻を描いた戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『マイ・ラブ:絹子と春平』上映と監督の話が催されたことを知人から聞きました。会場でも私どもの催しを紹介して頂けたようで、主宰者の方の心遣いに感謝しています。もう少し先に知っていたら参加できたのですが…。本当に残念なのですが作品自体はNetflkixでの公開なので、契約していない私は現状では観ることが出来ません。けれども内容はこちらで紹介されていて、思いを知ることが出来ます。
『凱歌』も長い間国がやってきた「らい予防法」と「旧優生保護法」下での強制不妊手術という大きな過ちを体験者が訴えています。このような悲劇を繰り返さないために、勇気をもって語って下さる人々の言葉をぜひ聞いて頂きたいです。
この本を読むまで知らなかったのですが、ハンセン病は免疫力が十分でない乳児期の感染が最も多いのだそうです。きみ江さんが感染した時も乳幼児の時と思われていて、7年以内の潜伏期間を経て、首のうしろに500円玉ぐらいの白い斑点ができました。10歳ぐらいの時に手足にしびれを感じるようになり、熱や痛みを感じることがなかったので火傷や怪我の繰り返し。やがて神経痛が全身に広がります。どんどんできないことが増えていきますが、そんな時でもお母さんは心を鬼にして、自分のことは自分でやるように仕向けました。
21歳の時「らい病」ではないかと周囲も自分も思うようになって受診。医師から「らい病の一番危険な時に、家族と一緒に暮らし、赤ん坊もいるのに誰も症状が出ていないなら敢えて病院に行くことはない」と言われましたが、「近所の人に私の病気を知られたくない、保健所にだけは言わないでほしい」と依頼してその3日後に多磨全生園に向かいました。保健所の人が大勢来て家の中が真っ白になるほど消毒されて知れ渡り、それにより家族が差別されることを危惧したのです。入所して10日後の検査で無菌と診断されましたが、「らい予防法」には退所規定がなく、一度「らい病」と診断されたら死ぬ迄療養所で生きていくしかありませんでした。菌があろうとなかろうと関係なかったのです。全く酷い法律です。
きみ江さんは、お母さん譲りなのでしょうか、負けん気が強く、できないことがあるとできるまでやれば必ずできると諦めないで何回でも挑戦します。同じ入所者の定さんはその粘り強い根性に惹かれました。「患者の結婚は子孫を残さない」が条件だったので、その時余命4年を言われていた定さんが断種手術を受けましたが、この本ではその時の具体的なことは一切書かれていません。『凱歌』で初めて非人間的な扱いを受けたことを証言されています。
2001年5月ハンセン病に対する国の責任が問われた裁判の判決で熊本地方裁判所は「らい予防法にもとづくハンセン病政策は、患者の人権をはなはだしく侵害し、差別や偏見を大きくした」と指摘し、「少なくとも1960年から、ハンセン病は隔離が必要な病気ではなく、隔離自体が明らかに憲法違反であった」として、患者が「人間らしい生き方」を奪われたことへの国の責任の所在を明らかにしました。
さまざまな困難を経験したきみ江さんは社会復帰を果たし、縁を得て養女を貰い、生前の定さんは孫を抱くことも出来ました。今は多磨全生園内にできた花さき保育園の園児たちとの触れ合いを楽しみにされ、「生きるって、楽しくって」と話します。差別と偏見による悲劇を二度と繰り返して欲しくないとハンセン病の語り部として積極的に講演も引き受けておられます。
ドキュメンタリー映画『凱歌』もその一つです。お一人でも多くの方にご覧頂きたいです‼宜しくお願いいたします!!!!!