随分久しぶりにブログを書きます。日々は細々と運営している「おもちゃ映画ミュージアム」のことで精一杯で、なかなか書けずにおりますが、その間も気になることが新聞に載っていたりするとスクラップをしていて、紹介できずにいるスクラップがたくさん溜まっています。

とりわけ強制不妊問題については、この間に随分進展がありました。その要因のひとつに粘り強く取材を続けておられる京都新聞記者森 敏之さんの活躍もあると思います。森記者さんをお招きして、強制不妊問題の講演をしていただき、映画『凱歌』を上映したのは2023年11月12日のことでした。先日facebookを見ていましたら、懐かしいお顔の写真が目に飛び込んできました。『凱歌』でその生き方が採り上げられていた山内きみ江さんです。

これが、facebookで目にした8月11日付け朝日新聞デジタル版です。
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指がない右手を見せてくれる山内きみ江さん。後遺症で手足の感覚がほとんどないという=2026年7月6日、東京都東村山市、上田学撮影。

戦争とハンセン病のはざまで:前編

敬和学園大元教授・藤野豊さんのインタビューはこちら

戦後81年となり、ハンセン病患者の隔離を定めた「らい予防法」が廃止されて30年が経つ。病に冒されながらも戦時下を生き抜き、戦後も差別や偏見に悩まされてきた元患者らがいま思うことは。

 ハンセン病元患者の山内きみ江さん(92)には忘れられない出来事がある。東京都内の講演会で話していると、男性が割って入るように自らの体験を話し始めた。

 「俺はらい病(ハンセン病)の患者を目隠しして、掘った穴に生き埋めにした」

 男性は元軍医を名乗った。

 軍隊に従事し、出征先の海外で終戦を迎え、食べ物にも事欠くなか、敵軍から逃げ回っていたらしい。そんな環境下で、ハンセン病に感染したらしい隊員2人を殺す計画を立てたというのだ。

 「逃げているときに、らい病は他の人にうつると、多くの人に迷惑をかける。医者として見過ごすことはできず、感染経路を断つしかなく殺した」

 男性はそう強調した。

 山内さんは憤り、こう反論した。「先生は医者でしょう。人の命を助ける人でしょう。あなた、うなされますよ。殺された人たちはまだ苦しんでいますよ」

     ◇

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全生病院(現・多磨全生園)の収容門付近。正門とは別に造られた=国立ハンセン病資料館提供

 国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)で暮らす山内さんは、現在の静岡県藤枝市の農家に生まれた。小学校にあがった頃、耳の後ろに白っぽい斑紋ができたことに気づいた。太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年の頃で、それは初期症状だった。

体に異変「戦争に勝つまでは辛抱」

 戦況が激しくなるとともに、山内さんの症状もひどくなってきた。竹やりを手にしてわら人形を突く練習で、手先の感覚がなくなり、竹やりを落としてしまう。「敵を倒す気がないからだ」と小学校の教師からしかられた。「米国の兵隊はわら人形みたいに弱いのですか」と尋ねると、「非国民」と尻を竹やりでたたかれた。

 帰宅して家族に話すと、父は泣きながらこう言った。「先生を恨むな。恨むなら戦争を恨め」。教師自身もまた、召集令状が届けば戦場へ送られる立場だ。山内さんは体の異変を感じてはいたものの、「戦争に勝つまでは辛抱しなければ」とじっと耐えた。

 小学5年生のときに玉音放送を聴いた。症状は進み、既に鉛筆は持てず、本をめくることもできなくなっていた。紡績工場に就職したが、指先の感覚がなく、細かい作業ができずに解雇された。痛みは日ごとに増した。戦時中は医師に診てもらえなかったが、終戦を待ち、ついに病院に駆け込んだ。だが、「関節リウマチ」と誤診され、病気の発見は遅れた。

 その後、洋服の仕立て店で働いていたときに、客から苦情が出たことをきっかけに再び病院で診断を受けると、ハンセン病と判明した。医師から「いまさら療養所に入所しなくてもいいのではないか」と言われたが、「家族に迷惑はかけられない」と1957年、22歳で自ら多磨全生園に入った。実家の集落でハンセン病患者が出た家族が村八分にされるのを見てきたからだ。

 入所後、長らく「語り部」として講演活動を続けてきた。らい予防法の廃止から30年経つが、いまだに病気のことは知られておらず、病気への恐れから差別と偏見につながっていると感じている。「まだ偏見がないとは言い切れない。いまもいろんな病気があるし、少しでも理解してもらいたい」と話す。

     ◇

 講演会から2週間経った雨の日、元軍医の男性と再び会う機会があった。「あれから毎晩うなされるんだ」。謝罪の言葉こそなかったが、山内さんは後悔の念を感じ取った。語り続ける大切さを改めて知った。

 「戦争は人を変えてしまう。人を助けるはずの医者まで人を殺すようになる。だから私は人ではなく戦争を恨むのです」

 山内さんは「自分の体験を話すのが使命だ」と、いまも講演を続けている。

後編:「療養所85年、一番遠い『ふるさと』 空襲受け病人背負って防空壕へ」は、8月12日午前10時に配信予定です。

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うっかり、8月12日の記事を読むのを失念していました。そして、ここに貼った記事もそのうち消されるかもしれませんが、まだきみ江さんのことを知らないでいる人のために、ダメもとで貼ります。

早速私は、2023年11月12日の振り返り記事を書いたブログのリンクを貼ってfacebookで書きました。「国立療養所多磨全生園できみ江さんは定さんと知り合って結婚します。園のきまりで強制不妊手術を受けされられ、定さんは犬猫のように麻酔もない手術を受けさせられたそうです。1947年化学療法薬プロミンの効果がはっきり出ているにも関わらず、国は1996年になって漸く「らい予防法の廃止に関する法律」を施行。きみ江さん定さん夫妻は、誤った隔離政策と強制不妊の二重の苦しみを味わされました。ブログで紹介した『きみ江さん ハンセン病を生きて』(片野田斉著、偕成社)には、朝日新聞の記事で触れている元軍医の話も出てきます。ともあれ、きみ江さんがお元気でお過ごしだとわかり、それが何より良かったです」と。

さて、今朝の京都新聞市民版トップは、森記者の記事でした。
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映画『ヒゲの校長』の監督谷 進一さんは、私どもの副代表をしてくださっていて、この作品が完成してまもなく、2022年11月3日、おもちゃ映画ミュージアムを介して知り合ったNISSHA財団の小西 均様の多大なご尽力によって国登録有形文化財の本館で上映させてもらいました。
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今年8月4日家にあった古い速記タイプライターをNISSHSA印刷歴史館に寄贈した折に久しぶりにお会いした際も、『ヒゲの校長』上映会の思い出話に花が咲きました。もう4年近く前のことなのに、いつまでたっても心に残る良い上映会でした。

その感動作が来る9月5日京都市左京区の市国際交流会館で上映されます。しかも谷さんの希望が叶って「超バリアフリー版」で。日本語字幕、日本語音声ガイド、英語字幕、磁気誘導ループを設置されるので、谷さんが言うように「障害の有無にかかわらず同じ空間で一つの作品を楽しんで欲しい」です💗


紙面掲載写真で谷さんが左手に持っているのは、京都大学点字サークルのメンバーがボランティアで作って下さった点字のチラシ。右手に持っているチラシを点訳して貰ったら3枚弱になったそうです。
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私が枚方に住んでいた40年ほど前のことでしょうか、点字絵本を作る連続ワークショップに参加したことがありました。透明シートを何枚も等高線状に切って貼って表し、指でなぞって起伏がわかるよう工夫したような記憶があります。谷さんは、「視覚障害もまだまだ知らないことだらけでした」とおっしゃっていたので、今度の上映会も契機になって、新たな監督作品ができるのを楽しみに待ちたいです。
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京都民報の記事は、特別出演され昨年9月9日に亡くなった俳優栗塚旭さんに焦点を当てて上映会を紹介しています。早いもので、もうすぐお亡くなりになって1年になるのですね。心温かい作品に協力し、こうしてまた大勢の人に鑑賞いただける機会があることを天国で喜んでおられることでしょう。
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どうぞ皆様、9月5日はお誘い併せて超バリアフリー映画『ヒゲの校長』上映会にお越しくださいませ‼
2026年9月5日(土)
① 10時~12時
② 13時~15時
③ 15時30分~17時30分
④ 18時~20時
全4回上映で、上映時間は各回2時間です。
【会場】
京都市国際交流会館 イベントホール
市営地下鉄東西線「蹴上駅」から徒歩約6分。
または、市バス「岡崎公園 美術館・平安神宮前」下車、徒歩約10分です。
【入場料など】
入場料は一律1,000円です。
小中学生とガイドヘルパーは無料です。
予約は不要で、全席自由席です。
当日、受付にて入場料をお支払いください。
【8月27日追記】

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8月27日神戸新聞文化面で、『ヒゲの校長』とそれを監督した谷進一監督へのインタビュー記事が載っています(画像の上でクリックすると拡大してお読みになれます)。谷さんの人柄や想いがとても良く表れていて、「私は本当に良い人と出会えているんだなぁ」と記事を読みながら、改めて思っています。

7月16日夕刊
7月3日の画期的な最高裁判決以降の京都新聞の記事を貼り付けます。16日付け夕刊連載の初回で被害者のお一人で原告の北三郎さんの体験が紹介されています。
7月17日朝刊1面
7月17日朝刊1面。
7月18日1面
7月16日岸田首相が被害当事者の人々に直接謝罪したことを報じる7月18日付け1面記事。
7月18日3面
京都新聞7月18日付け3面に大きく掲載。
7月18日夕刊
翌7月18日付け夕刊連載の2回目。映画『沈黙の50年』で自らの体験を証言している小林寶二さん。文末にこの映画にも触れています。
7月19日社説
7月19日付け社説。
7月19日夕刊

7月19日夕刊連載の最終回では、札幌訴訟原告の小島喜久夫さんの体験が語られています。
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これは7月25日付け。文末の「(手術を)思い出したくないという人もおられ」の一言に心がグサッとしました。どんなに悲しくて、悔しくて、辛かった人生かと思い、少しでもそれを慰めることに繋がれば良いのにと素人考えでいたことを恥じました。それ以上に「思い出したくない」という感情が優先する人もおられるのですね。国は長い間誤った優生思想のもと、不妊手術を強いてきたのです。二度とこのようなことが繰り返されないよう、真摯に反省し、教育現場はもとより、様々な機会をとらえて世の中全体で払しょくするよう努めていかねばなら良いと強く思います。

今日は相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら45人が殺傷された事件から8年の日です。昨年11月12日に強制不妊手術問題をテーマに講演して下さった京都新聞記者森敏之さんの講演と「障害者の尊厳・人権について」をテーマにしたシンポジウムがありますので、会場の同志社大学今出川キャンパス明徳館1階M1番教室に出かけてきます。相模原殺傷事件を考える実行委員会主催です。予約不要で無料です。13時開場、13:30~16:30ですが、時間内自由だそうです。

また、19時半から京都市南区東九条東岩本町の市地域・多文化交流ネットワークセンターでも日本福祉大学准教授藤井渉さんによる集会があるようです。こちらも、予約不要で無料。

ご都合よければ、どうぞお出かけください。



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7月13日、田村誠志さんが来館。8月18日に上映する『沈黙の50年~国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち~』の予約を頂きました。多くの人たちが10時からの第1部を希望されて定員に達し、続く13時からの第2部、16時からの第3部、19時からの第4部も予約が相次ぎ、締め切り直前です。皆様、関心を寄せて頂きまして誠にありがとうございます‼

田村さんは聾の若者。筆談で話しましたが、口話も上手。それで少し話を交わしました。アメリカのワシントンDCにあるギャロ―デット大学で学んだ後、同大学大学院を卒業。8月に博士になるためにアメリカに戻り、5年間研究をするのだそうです。

「何を勉強するの?」と聞けば、「日本手話の研究をしたい。特に京都の手話を」ということでしたので、参考になるからと思い、「谷進一監督の前回作『ヒゲの校長』をご覧になりましたか?」と尋ねたところ、まだご覧になっていませんでした。何とか見せてあげる方法はないものかと谷監督に伝えました。

田村さんがおもちゃ映画ミュージアムに来られたのは、5月に大学院卒業後に京都に帰国したものの、何処に聾者のサークルがあるのかわからずにいたそうです。今日入った喫茶店で思い切って尋ねたところ、お店の人が『沈黙の50年』のチラシを渡しながら、その上映会に行けば聾の人と出会えるのではないかと助言して下さったのだとか。faxをお持ちじゃないので直接申し込みのために訪ねて来てくださったという次第。

はた目に聾者の人々のネットワークは網の目のように張り巡らされているように思っていましたが、そこに辿り着けずに困惑しておられる人々もおられるのだなぁと思いました。田村さんは素晴らしい行動力があるので、こうして出会えましたが、引っ込み思案な人はどうなんだろう?とフト思いました。

NHKのEテレ「#ろうなん」に登場されたことも教えて貰いました。https://www.youtube.com/watch?v=mMiW5deq5YY&list=LL 短い番組ですのでぜひクリックしてご覧下さい。

私自身は不勉強でアメリカに聾・難聴者のためのギャロ―デット大学があることを初めて知りましたが、世界的に知られている大学なんですね。設立されたのは約160年前のこと。改めてネットで調べてみますと、1857年に慈善家エイモス・ケントという人が土地を寄付して“コロンビア聾唖教育施設”が作られ、今から160年前の1864年に国立聾唖大学になり、リンカーン大統領が署名しています。これが今のギャロ―デット大学の始まり。

1864年の日本は?と調べれば、元治元年6月4日に新撰組による有名な“池田屋事件”が起こっています。そういう時代に、アメリカでは国立の聾者や難聴者が学ぶための学校が作られていたのは凄いですね。

キャンパス内に全米デフライフ博物館があるのも素晴らしいです。大きなスペースを割いて紹介しているパネル“デフ・プレジデント・ナウ運動”はDPNと呼ばれているそうです。長年、学長は健聴者が務めていましたが、学生たちは当事者主体の大学をめざし、聾者の学長を選出するよう抗議デモを行ったそうです。

その運動が実ったのは大学設立から124年後の1988年。随分時間がかかったのですね。現在田村さんのように日本からだけでなく、世界100カ国以上の国から留学生が訪れ、大学全体で約1600人の学生がおられるそうです。番組では研究センターで働く皆川さん、留学生の鈴木さんの他、ソーシャルワークの高山亨太教授も紹介されていました。

皆さんアメリカ手話でコミュニケーションをとっておられましたが、手話には書き言葉がないので、田村さんは手話を記録して文字にすることが出来ないかと勉強をされていて、「それが成功したら日本の手話に応用してみたい」と目標を話しておられました。

番組の最後に高山教授が「この大学に来て感じたのは、聾・難聴者が社会で活躍できる環境がしっかり整備されていること。アメリカには専門知識を身につけた聴覚障がい者がたくさんいる。その人たちがロールモデルとなって、その専門知識の分野で仕事の選択肢を広げることができる。これからは母国の日本に焦点を当てて、聾・難聴者のコミュニティの地位向上、そして彼らがアジアの聾社会に影響を与えることが出来るようにしていきたいと考えている」と話しておられます。

8月18日に上映する映画は旧優生保護法下で本人の意思を無視して不妊手術を受けさせられた聾者の小林寶二さんを主人公に撮影しています。同じく聾者だった妻の喜美子さんは裁判途中で無念にも亡くなります。高齢の夫妻は裁判を通して、国による戦後最大の人権侵害を自らの体験を語りながら世に訴え、二度とこのようなことを繰り返さないように、「差別のない社会に」と願って活動されている様子を記録しています。

学生たちの要望が叶いギャロ―デッド大学に聾の学長が就任した1988年当時の日本は、まだ旧優生保護法下でした。この時点で日本では、まだ障害を理由に不妊手術を強いられていた人々がおられたのです。

7月3日の最高裁判所で裁判長は旧優生保護法が違憲であり、国に賠償を命じる判決を下しました。何でこれほどまでに時間がかかったのかと思わずにはおれません。11日茨城県知事は、判決では本人が同意して行われたとされる手術でも実質的にはすべて強制的な手術だと判断されたとして、補償の対象になる可能性がある人は県内であわせて最大250人ほどに上る見通しだと述べ、「自治体としても意図せず被害を被った人たちに寄り添い、できるだけの対応をしたい」と述べたそうです。

このような姿勢が各自治体におかれても速やかに広がっていくことを切に願います。改めて、障害があろうとなかろうと、その人らしく人生を全うできる世の中になれば良いし、していきたいなぁと思います。

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