共に生きる会2A
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共に生きる会の第2回事業を、来る5月8日(土)14時から開催します。今回のテーマは強制不妊問題です。

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第1回事業「語りと映画で知る『ストーマ』のこと」でご覧頂いた映画『Home Nurse~訪問看護の時間~』に、利用者の聾者夫婦の娘さんに、かつて聾者が置かれていた状況を訪問看護師の女性が手話で説明する場面がありました。「鈴さん(娘)が生まれた時代、子どもが産めなかった聾者が大勢いたんです。子どもをもうけるなら親子の縁を切ると言われて…」「聾者には育児は難しいって反対されてた…」と。

こうしたことがあったことを、どれぐらいの人がご存じでしょうか?正直に申せば、私自身よく知りませんでした。自分が直面しなければ「自分ごと」としてなかなか関心を持つことができないでいることって、たくさんあると思います。でも、そうした事実があったこと、今も様々な困難に直面している方がおられることに対して、たとえ当事者でなくても関心を寄せることが、とても大切だと思うのです。とりわけ今日のように政治が「自助」を最優先にする社会にあって、弱者への想像力を働かせることが共に生きやすい社会構築に極めて重要だと思うのです。
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凱歌裏

2月に京都シネマでドキュメンタリー映画『凱歌』を観ました。坂口香津美監督が9年半費やし、郷里を追われ、「国立療養所多摩全生園」に入所した4人の元ハンセン病患者の証言を記録した作品です。主人公きみ江さんのご主人は、園内でハンセン病患者同士が結婚する条件として断種を強いられ、麻酔もなく精管を切除され、別の女性は妊娠9ヵ月で堕胎を強いられ、目の前で赤ちゃんを殺されました。映画は証言を通して「人間とは何か」を観る人に問いかけます。


男性の入所者は言います。「断種、パイプカット、人間の生殖能力を取るということは人間でなくなるということなんですよ。ここからすべての悲劇の原点が始まっているということでね。そこへ隔離というものがあって、苦しい思いでみんな生きてきて。本当に人間の原点である遺伝子を残すという作業は、大変なものなんですよ。何万年も続いてきたものを、そこで打ち切るということですからね」

「生まれた赤ちゃんを、冷たい鉄の容器の中に顔を伏せて寝かせて、冷たい風にさらして、無理に殺しとるわけなんですよ。今でもその恨みは忘れません。かわいそうに。それをね。いくら法律や言うたって、人間でしょ。人間であれば、そういう情けを持つべきじゃないですか」とその女性は言います。

かつて、何があったか、どんなことが行われていたのかをもっと多くの人に知ってもらいたいと思いながら観ました。関西地区では、4月23日(金)まで、大阪のシネ・ヌーヴォ http://www.cinenouveau.com/ で公開中ですので、ぜひご覧頂ければと思います。立命館大学国際平和ミュージアムでも3月1日~27日に「ハンセン病隔離と希望 長島愛生園の人びと」と題した展示が行われていました。映画やこうした展示を通して、理解を広めることが大切です。


今回上映する『ここにおるんじゃけぇ』は2010年5月に完成した下之坊修子監督のドキュメンタリー映画です。2004年「優生思想を問うネットワーク」の企画で制作した『わすれてほしゅうない』で中心的な登場人物となった佐々木千津子さんの魅力に取り憑かれた下之坊さんは、4年後自分から申し出て、広島に住む彼女のありのままの日常をカメラで追います。

1948年1月生まれの佐々木さんは、生後1週間で発熱して仮死状態になり、脳性麻痺となりました。17~8歳の時、姉の見合い話が「障害者の妹がいるなら、遺伝が怖い」という理由で破談になります。それがきっかけで家を出て施設に入ることを決めます。施設に入るには生理の始末が自分で出来ないとダメだと聞いて、母親が聞いてきた「痛くも痒くもない手術」を受けることに。20歳の時のことです。広島市内の公的病院で卵巣に放射線照射を1週間受けました。医師がいう「コバルトの効き目」で身体の不調に悩まされ続け、生涯痛み止めが手放せない状態になります。

子どもが好きだった佐々木さんでしたが、就学免除だったこともあり、生理と子どもの関係を知らず、後になって知って「あぁ、そうか、馬鹿なことをしたものだ。元に返して欲しい」という気持ちで一杯になったそうです。手段も手続きも当時の優生保護法で定めた手術の範囲を逸脱しています。

佐々木さんが生まれた年の9月に「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的とした「優生保護法」が公布され、1996(平成8)年母体保護法に改訂されるまで約50年間続きました。様々な疾病や障害を持つ人びとに対して、本人の意思に基づかない不妊手術が行われてきました。

この問題に関心を持ち始めたのは昨年10月7日付け京都新聞の記事でした。大見出しは「京都の強制不妊 平成でも」、小見出しは「手術後、何をされたか知らされた」とありました。旧優生保護法下での不妊手術には、本人同意を条件にした手術(行政の記録が作られなかったので件数と実態が不明)と、本人の同意がなくても認められた手術(都道府県が設置する優生保護審査会が適否を決定したので記録が作成されましたが、大半が「保存期限切れ」を理由に廃棄されています)の2種類がありました。この小見出しにある精神障害を患っていた方の場合は、「同意あり」として行われたとみられていて、事実上の強制だった可能性が高いそうです。

続いて、11月30日に大阪地裁で聴覚障害がある男性(80代)と妻(70代)と知的障害がある女性(70代)が、旧優生保護法下で強制不妊を強制されたのは憲法違反だとして損害賠償を求めた訴訟の判決が出ました。2019年5月の仙台地裁に続き、旧法を「極めて非人道的で差別的」だと違憲としつつも、手術から提訴まで20年の「除斥期間」が経過し権利が消滅したとして訴えを棄却しました。健常者と同じように「除斥期間」を適応するのは余りにも理不尽だと思います。

今年1月15日に行われた札幌地裁の判決も同様の判決でした。1月16日に裁判を報じた京都新聞の記事によれば「国の統計では不妊手術を受けたのは約2万5千人、うち約1万6500人は強制とされる」とあります。19歳頃「精神分裂病」と言われ施術された男性(79歳)は実名を公表し、被害を詳細に話しているにも関わらず「除斥期間」を理由に棄却。「手術で国に人生を台無しにされた」という男性の苦しみに、国も司法も真摯に向き合い、既に高齢になった原告の方々の思いに沿って欲しいです。2月4日札幌地裁の判決はもっと後退した判決で、知的障害がある妻と夫が1981年6月に受けさせられた人工妊娠中絶手術と不妊手術は「医師の意見書や手術痕の写真など客観的証拠がない」として手術の実施そのものを認めませんでした。

全国9地裁・支部で訴訟が起こされていますが、そのきっかけになったのが佐々木千津子さんでした。世間にはびこる差別を激しく批判した脳性まひ当事者の団体「青い芝の会」(1957年11月結成。会名は青々とした芝のように、踏まれても踏まれても強く明るく生きていこうという思いが込められている)との出会いから、施設を出て地域で自立生活を送るようになります。障害者の仲間から、月経をコバルト照射でなくしたことは障害者差別だと指摘され、そのことの意味を漸く理解した彼女は「二度と自分と同じ思いを持つ人が現れてほしくない」と自らの経験を人前で話すようになります。そして、2003年強制不妊問題で最初に名前と顔を出し、違法な不妊手術を受けさせられたことを訴えました。
2003年佐々木さんの訴状 - コピー (2)
下之坊監督が佐々木さんの日常に密着して『ここにおるんじゃけぇ』を完成した3年後の2013年、佐々木さんは山口県内で行われた勉強会の帰りに体調が悪化し、運ばれた病院の使われていない分娩室で亡くなりました。「子どもがほしい」と言っていた佐々木さんには余りにも酷な結末です。享年65歳。

その死から2年後の2015年6月23日、佐々木さんと交流があった仙台市の女性が仮名で、弁護士や「優生手術に対する謝罪を求める会」をはじめとする障害者団体、女性団体、市民団体等の支援を得て、日本弁護士連合会人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行いました。「申立人に行われた不妊手術・優生手術が申立人の自己決定権、憲法13条で定める個人として尊重され、生命、自由、および幸福追求の権利を侵害した違憲・違法な手術であったことを認め、国に対し申立人に対する優生手術に対する補償を含む人権救済のための適切な処置を求めるとの勧告」を出すよう要請しています。この動きをマスコミ各社が報道し、この動きは全国へ広がりました。

これまで5件の地裁判決が出ていますが、いずれも国の賠償責任を認めていません。旧優生保護法下、差別が正当化された社会にあって、声をあげられなかった弱い立場の人たちの声に、思いに、国や司法だけでなく私たち自身も耳を傾けることが必要だと思って、上映会と下之坊監督の講演会を計画しました。演題は「誰もがあたりまえに生きる社会」です。

監督は「私たちは、障害者やあらゆる人たちに対して差別意識を持って生まれてきたのだろうか。なぜ、こんな社会になったのか、皆でしっかりと考えたい」と仰っています。新型コロナウイルスの変異型が猛威を振るっています。こうした中での開催になりますが、定員をいつもより減らし、換気と消毒などに気を付けながら実施します。どんな人もその人らしく生きていける社会を目指して、一緒に考えましょう。お申し込みをお待ちしています。