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一昨日は、京都新聞の記者さんに、私が普段活動している“おもちゃ映画ミュージアム”に来てもらって、30日まで開催している映画『ヒゲの校長』資料展の取材をしてもらいました。

この展覧会は“共に生きる会”第3回事業として11月3日にミュージアム近くのNISSHA本館(国・登録有形文化財)でこの作品の上映会をするので、少しでも動員に繋げることができ、更には今後この映画が各地で上映されるきっかけにもなったら良いと提案して実現しました。幸いにも11月3日の第3回事業の方は動員の心配をする必要が全くなく、逆にお断りをしなければならない状況で、途中定員を増やして対応しても、まだキャンセル待ちの方が幾人もおられるほど関心が高いです。

資料展の方も、連日聾者の方を中心に遠方からも見に来てくださっています。手話の映画が、無声映画保存活動の様子を知っていただく機会になろうとは想像だにしていませんでした。何からご縁が結ばれるかわからないものですね。

昨日は写真中央に写っている小畠由佳理さんから教えてもらった“電子メモパッド”を買ってきました。

電子メモパッド
これまではメモ紙で筆談して会話してきましたが、これはペーパーレスで便利。何度でも書いて消してができますし、厚さ5ミリで軽い。早速、展示している道具たち、保存している映像や、体験などをこのメモパッドでサッサと書いては見せて、ワンタッチで消して、また書いてと繰り返し。私、言ってる割には手話ができませんが、これを使うとコミュニケ―ションが楽にはかれて良い調子。

今日お見えのお客様は、映画の主人公髙橋潔が校長を務めた大阪市立聾学校で小さい時から学んだ方。本作品に出演し、脚本も手掛けられた前田浩さんは4つ上の先輩なのだそうです。今は関西大学でボランティアをされていて、毎年同大学で開催されている「地方の時代」映像祭のスタッフとしてもご活躍。そんなこともあって私どもの活動に興味を持って下さり、「とても貴重な施設だから、広報するわ」と仰って、チラシを持ち帰って下さいました。その後のメールのやり取りで「目で聴くテレビ」の仕事もされていたそうです。お互いにとても良い出会いの場となりました💖

映画では髙橋校長が6本の映画を作ったという場面がありますが、この映画が学校に保存されていて、この方は「小学1年の時、みんなで髙橋校長が作った映画を観た記憶がある」と教えてくださいました。
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この台本が髙橋校長が作った映画の一作品かと。1938(昭和13)年のことで、その翌年10月1日に映画法が施行されます。映画が事前検閲され国家統制される時代になります。

手話で「映画」を教えて貰いました。キャメラ・映写機のクランクを回す仕草で表現しますが、今時は、スクリーンで表現するらしく、両手を前に伸ばし、掌を手前に向けて、そのまま交互に上下に振ります。さらにわかりやすく、拳を前に突き出しながら掌を開き、映写機から放たれる光線を表現します。手話も言語と同様、絶えず変化しているのですね。髙橋校長の時代は、下の動画のようにクランクを回す仕草で「映画」を表現していたと思います。


口話がとてもお上手で、だいたいの意思疎通ができたので、補いは互いにスマホとメモパッドでのやり取り。お父様が使っておられた映写機もあったようで、「断捨離なんかするんじゃなかった。『ヒゲの校長』資料展で母校が懐かしくなり、一刻も早く大阪で上映して欲しい」と話しておられました。右のお友達は、京都府立聾学校で幼~高等部まで通われたそうです。お二人とも谷監督の前作『卒業~スタートライン~』をご覧になっていました。この作品は約50年前、京都府立聾学校で手話が禁止されたことに対し、立ち上がった生徒たちの実話をもとにしています。

『ヒゲの校長』が描く100年前は手話が否定されましたが、それ以前は手話が使われていました。それが、なぜ禁止されて、アメリカで進められていた口話を国は推進したのでしょう。そして、せっかく髙橋校長たちが奮闘して守った手話が、その50年後に再び「手真似はダメです」と否定され、口話が押し進められていったのでしょう?

歴史が好きなので、ちょっと社会背景と髙橋校長が生きた時代を振り返ってみようと思います。

髙橋が大阪市立聾唖学校に赴任してきた1915(大正4)年の前年に第一次世界大戦が勃発します。

同聾学校教員の大曾根がアメリア留学中にヘレン・ケラーと会い、その助言によって手首から上だけで表す“大曾根式指文字”を教員らで考案して1931(昭和6)年に発表します。その年9月に満州事変が起こり、翌年3月に日本は中国東北部に傀儡国家“満洲国”を建国します。

同聾学校の藤井も海外の聾学校を視察して「子どもの力に応じて手話、指文字、口話を併用していて、子どもたちのコミュニケ―ションも活発だった」と報告し、髙橋たちは子どもらに合った適正教育を進めるORAシステムを発表します(大阪のO、聾のR、唖のA)。
ORA
1933(昭和8)年、文部省「全国盲唖学校校長会」で、文部大臣鳩山一郎が「国民としての思想を高めるためにも、全国の聾唖学校には口話教育に奮励努力していただきたい」と訓示します。この年3月、日本は国際連盟を脱退し、文部省は「非常時政策」をとり、「映画国策樹立のための建議」が帝国議会に提案しされ、映画統制が始まります。
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髙橋らが車座で菊池寛原作の芝居『父帰る』を公演した1940(昭和15)年は、紀元二千六百年奉祝祭が国中で展開されました。そして、その翌年12月8日に太平洋戦争が勃発します。

戦争がヒタヒタ近づき、やがて戦争一色になり、やがて泥沼に。そういう時代にあって、国による口話推進の背景には、聾唖者教育に対しても軍部の圧力があったのではないかと思うのです。同じころ、手旗信号やモールス信号がより軍事的に有効だと考えられて重要視されます。モールス信号は1837年アメリカのサミュエル・モールスが原型を考案しましたが、日本が推進しました。
モールス信号
モールス信号裏
口話も考えようによっては同じで、口の形を読むのでスパイ活動にも使えます。想像をたくましくすれば、そういう思惑が国にはあったのではないかと思うのです。

校長会で訓示を垂れたのは、国民を一つに統制するにはいろんな意見があると厄介なので、異論を抑えつける狙いを感じます。手話が否定され、口話が推進された背景には、力で国民を統制していった時代背景が影響しているように思うのです。映画ではこうした時代背景が全く表現されていませんが、そうした昭和史と結びつけてご覧になると、より一層意義深いと思います。

ともあれ、どんなに政治の力で手話が否定されても、子どもたちの中では手話が使われ続け、今に至ります。今は手話も口話も併用され、子どもたちの適性に合わせた教育が行われています。

一番最初に載せた京都新聞の取材に備えて、小畠さんが事前にメモ書きを用意してきてくださいました。
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小畠さんは生まれつき聞こえなかったのですが、近所の仲良しさんと一緒に遊んだり勉強したりしたいので小学校5年生で聾学校を出て普通の学校へ入り、大学まで過ごされました。中には普通の学校から聾学校に戻った人もおられるそうです。「聾学校では口話教育が厳しくて苦しかったけど、一生懸命取り組んだ」と小畠さん。

上掲写真右上に少しお顔が写っている小川和久さんも口話教育を受けた方です。写真下に少し写り込んでいるイラストを描いた方。今回の資料展で小川さんの5作品も展示していますので、ぜひ見にいらして下さい。映画にも出演されています。

その小川さんにも口話のことを尋ねましたら「学生時代は難聴クラスに通い、手話を知らず、口話の時代に学びました。社会にでると、人の口の形が読み取れず、非常に難しかったです。筆談ばかり。手話する友人から手話を学び、話しやすく、コミュニケーションの効果がありました。昔の時代は、手話の世界を知らず、後悔しました。現在は、バリアフリー(字幕、パソコンなど)、手話の世界(テレビ、映画、イベントなど)が広がっていて、若い人たちが羨ましい気持ちです」と教えて下さいました。

今日は小畠さんを先生に、手話を習い始めたばかりのお客様と一緒に俄手話教室。「頑張ります」「頑張って‼」「気を付けてお帰り下さい」「ありがとうございました」「嬉しい💖」「可愛い」などを教わりました。そのお客様は明日までに指文字を覚えないといけないのだそう💦

指文字 - コピー
聾の方たちのネットワークには目を見張るばかりで、展示期間中に近在だけでなく、遠くからも足を運んでくださっています。正直に申せば、聾者の方がこんなにたくさんおられるのかと思います。谷監督が話すように「学校で英語を習うように、簡単な手話を誰もができる世の中に」なれば良いなぁと思います。けれども、方言と同じように「東京の手話」「大阪の手話」のように、地域によって異なるのだそうです。なかなか簡単にはマスターできませんね。先ずは、手話を知って貰うことから始めましょう。谷さんによれば『ヒゲの校長』は手話の歴史が分かる最初の映画になるそうです。今後各地で上映されますので、ぜひその折に広くご覧頂きたいです‼