世の中全てがコロナ禍で様々な計画変更を余儀なくされていますが、私どもの2回目事業「映画『ここにおるんじゃけぇ』から強制不妊問題を考える」も例外ではなく、当初は5月8日の計画でしたが、思案の末、実施日を延期し、定員を通常より少なくして6月6日に開催しました。

実施から20日経ちましたが、お陰様で関係者、お客様全て平穏無事で胸をなで下ろしています。遅くなりましたが、当日の振り返りを。開場は14時。イベントのタイトルが、ちとハードに受け取られたのか予約が伸びず、もう少し、広く受け入れて貰いやすいものにすれば良かったという意見も後日頂戴しました。反省もしつつですが、昨年この問題をめぐって地裁で下ったいくつかの判決文を読みながら、除斥期間の適用など余りに当事者の人たちにとって理不尽なものだと思いましたので、先ずは問題の存在を知って貰いたいとの思いから、そのまま通しました。
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この日の講師のドキュメンタリー映画監督下之坊修子さんです。手にされているのは『忘れてほしゅうない』のビデオ。優生思想とネットワークという女性団体に参加している友人から「作って欲しい」という依頼があったのだそうです。「佐々木千津子さんという方が広島にいて、いつも『悔しい、悔しい』と言っている。集会でいくら言ってもなかなか埒があかんので映像にしようと思っている。一緒に作って欲しい」ということで、一年間話をし、どういう内容にするか話し合ったそうです。

『忘れてほしゅうない』のビデオは優生思想の歴史のことを分かりやすく、丁寧に映像化した作品で、まだご覧になっていない方はぜひご覧下さい。

この作品を作ったときに、下之坊監督は初めて佐々木さんと出会います。それまで障がいのある人たちとの接点が無かったので、まわりから「障がい者の人はかわいそうやから、あんまり表に出んほうが良いのになぁ」というのを聞きながら大人になったそうです。「頭では差別はしてはいけないということは分かっているのだけれど、実際自分の中でどれだけわかっていたのかなというのが凄くあって、仕事で佐々木さんと会ったとき、ちょっとびっくりした。障がいがある人が自分で着る服を選び、どこそこへいくと決めている。野球が好きなので『球場へ行く』という。『車椅子で球場行けんの?』と聞いたら『行けるようにするの!』と言ったので、『障がい者のくせに何なの』という差別的な気持ちがあったような気がする。でも何か自分が思っているのと違う。佐々木さんは私が思っていた障がい者像と違うと凄く感じられて、彼女とずっと接するようになった」と佐々木さんと出会ったときの印象を語ってくださいました。

私は下之坊監督が紹介してくださった広島カープの応援に車椅子で『行けるようにするの!』と佐々木さんが仰ったというエピソードに、最も強く佐々木さんの生き様が現れていると思い、感動すら覚えました。

私自身それほど多くの障がい者と接した訳ではないので、勝手な思い込みかもしれませんが、どこか遠慮して、いろんなことを我慢して生きておられるのではないかと思っていました。そうではなくて、健常者と同じようにできるように求めていく。以前授業で女性が働きやすいようにしていくことが、ひいては男性が働きやすいことになると教わったことがありますが、同じように障がいがある人が生きやすくすることは、健常者にとっても生きやすい世の中になることですね。

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『優生保護法が犯した罪』が出版された記念パーティーが東京で行われたとき、その撮影の為に監督も同行。行きは大勢一緒でしたが、東京からの帰路は下之坊監督と佐々木さんの二人きり。下之坊監督が大阪で下車したあと、佐々木さんは広島まで一人で帰られました。その車中で「何か面白いから第2段を作りたいねぇ」と話したそうです。
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『忘れてほしゅうない』のオープニングの言葉は、このDVDケース表に書かれた通りで、この車中で交わした会話から採録されました。佐々木さんは言葉が堪能で、「凄い表現者だなぁ」と思ったそうです。

4年くらい経って(途中で「あんた本当にやる気あるの?」と電話で尋ねられたこともあるそうで)、慌てて広島へ行ったら『忘れてほしゅうない』の頃の半分ぐらいに痩せて、言葉も本当に聞き取れないぐらいでした。「一瞬固まったけど、やるといったからには、やろう」と覚悟を決め、2008年からずっと広島通いをして、『ここにおるんじゃけぇ』の撮影を始められました。
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強制不妊手術のことで広島市民病院へ行きました。「記録が残っていないか」と言うのですが、「ありません」ということで前に進まない。佐々木さんもどうしようもないという状況でした。下之坊監督が毎月広島へ行って撮影していることで周りの人が「あの人何撮りに来とんのや?強制不妊のこと何も動いていないのに何撮んねん?」と言われていると耳に入りましたが、下之坊監督は「強制不妊手術のことが社会的に動く動かないだけじゃなくて、佐々木さんを撮りたいと思っているのだから、いいや」と考えて続けられました。佐々木さんは意外といい加減なところもあって、いろいろ企画が提案されるけどドタキャンになることもあり、結局毎日買い物に行くか病院に行くかの映像しか撮れず、結局『ここにおるんじゃけぇ』は広島から一歩も出ていない作品。佐々木さんは「私の日常を撮ってくれ」といい、監督は「それを撮るから自分をさらけ出して」ということで、二人で話し合って、淡々と日常を撮影することを繰り返されました。

映画で大手電気屋さんでの買い物風景が出てきますが、お店の人たちは佐々木さんの顔を見ないで介助の人に「これですか?」と尋ねます。佐々木さんが「それです」と言っても知らん顔をして答えを介助者に求めます。そういうことが多々ある中、佐々木さんはいろんなことを感じ取ってある意味戦っているという感じがしたそうです。一方「佐々木さん、今年のカープはどうかね?」「いやーあかん」という会話を交わす人もおられます。はなから「障がい者だから」という目で見る人もおられます。はちゃめちゃな面もありますが、意志の強さ、あとすごく優しいというか、神経が細やかなところもあって、そんなこんなで1年間広島通いが続きました。

2012年6月に佐々木さんは『ほっとしてほっ』(ゆじょんと)を出しました。佐々木さんは就学免除で学校へ行っていませんが、家で自分で勉強をして本や新聞を読んでいました。撮影開始と同時にネコちゃん言葉ですが、エッセイを書き始めました。深い言葉を書く人で本を出したいとずっと言っておられたので、たくさん書いた中から選んで自費出版されました。

その間、『ここにおるんじゃけぇ』が2010年に完成。以前から佐々木さんはリバティ大阪のイベントや講師を務めるなどの繋がりがあったことから、リバティ大阪の学芸員さんから「完成したら第1回上映をして欲しい」と言われていたので、そこで初上映。お風呂のシーンもあるのですが、その場面を入れたのは、一緒に関わっていた脳性マヒの人が「我々はずっと身体を笑われていたから『どや、この体で生きてんじゃ』という映像を出した方が良いんじゃないか」と勧められたからだそうです。

2回目の上映は広島のNPO法人障害者生活支援センター・てごーす主催でイベントホールが一杯になったそうです。ネット検索すると、障がい者が自分らしく生きていくために必要な情報提供を行い、介護派遣を通じて自立生活をサポートする活動をされている団体で、そのルーツは1977年に結成された「日本脳性マヒ者協会広島青い芝の会」だそうです。「てご」は広島の言葉で「手伝い・手助け」の意。山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上映され、どこの映画祭でも上映されるときは佐々木さんが必ず見に来てくださったそうです。

2013年山口県周南市で行われた優生思想についての勉強会から帰る途中、佐々木さんは急に気分が悪くなって熱中症のような症状になり、嘔吐物を喉に詰まらせ、窒息死のような感じだったようです。救急車で運ばれた病院のあろうことか分娩室で息を引き取りました。強制不妊手術を受けさせられ、子どもが欲しくても生めない佐々木さんの最期が分娩室という皮肉、何とも悔しい思いです。「広島青い芝の会」副代表が「さよならを言って6時間後に亡くなるとは思いも寄らなかった」とコメントを出されたそうです。

佐々木さんが亡くなった後、「何か残したいね」と言うことになって何人かで『ほおじゃのおて』(2014年8月31日、てごーす)という追悼文集ができました。表紙に使われてるメモリアルキルトは、佐々木さんが着ていた洋服で作られたのだそうです。いろんな人から寄せられた内容の濃い文集です。

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お葬式の時にお兄さんが来られて「千津子は家を出てしもて、全然帰って来なかったけれど、こんなにたくさんの人たちに関わって貰って生活していたんやなと思った。そういう意味では千津子は幸せやったんやな」と挨拶されたそうです。

「何で強制不妊手術なんかできるんや」という疑問があります。その歴史を振り返ると、100年ぐらい前からヨーロッパやアメリカ、カナダなどで病気や障がいを持つ人を生まれないようにしようという考えが広まっていて、1940年に当時のドイツの断種法などに倣い日本でも「国民優生法」ができて、遺伝性の障がい者に不妊手術をしても良いことになります。戦後それが1948年に「優生保護法」になって、「不良な子孫の出生を防止するため」と謳って対象を広げ、障がい者やハンセン病の人に不妊手術や中絶をしても良いことになり、強制的に不妊手術をしても良いということに。

そんな中でも、コバルト照射はいけないことになっていたのですが、佐々木さんは広島の病院でコバルト照射されて強制的に不妊にさせられました。そういうことが50年ほど続き、1996年「母体保護法」ができて「不良な子孫の出生防止」の文言や強制的な不妊手術の条文がやっとなくなりましたが、この間に行われた本人同意なしの不妊手術は分かっているだけでも16500人がその犠牲になり、そのうちの7割が女性でした。それでも強制不妊手術をされた人はなかなか声が出せないでいました。

佐々木さんは『忘れてほしゅうない』の時に、実名と顔を出して訴えましたが、世の中にはまだ「何のことだ」となかなか受け入れて貰えませんでした。その頃『忘れてほしゅうない』にも登場する仙台の飯塚淳子さん(仮名)が自分で「何かおかしい」と思って調べていきます。けれども、前後の年の記録があるのに自分が手術を受けた年の記録が見つかりませんでした。飯塚さんも辛い思いをしながら言い続けていましたが、女性団体の人たちと関わる中で新里弁護士と出会います。別件で相談していたところ「実は私ね」と強制不妊手術のことを話したそうです。弁護士さんは「知らなかった‼」といろんなことを調べてグループができて、飯塚さんを支援する活動が始まります。

2015年やっと日本弁護士連合会に人権救済の申し立てを行う事にこぎ着け、この動きをメディアが取り上げたので、いろんな人の目に付くようになりました。そこで1つは仙台の人が自分の義理の妹が強制不妊手術を受けたことをお母さんから聞いているので、おかしいと思い記録を調べたら記録が見つかりました。それで仙台地裁に提訴することができましたが、結果的に手術が行われてから20年以上経っているので除斥期間が過ぎているとして、賠償請求権は消滅していると棄却されました。その後の裁判もずっと敗訴が続いています。

「せいぜい2019年に一時金320万円ずつ払うということになったが、ないよりはマシとは言え、そのことで自分の人生がぐちゃぐちゃにされたのに、たったそれだけか!それを決めた人の給料はなんぼや?と思ったりする今の現状です」と下之坊監督。思わず首を縦に振って頷きました。
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後半では、佐々木さんが下之坊監督に残してくれたことについてお話をされました。これまで『ここにおるんじゃけぇ』をいろんなところで上映してこられましたが、その中の一つ、鳥取市のNPO法人夢ハウスで小柴千鶴理事長が上映して下さった折には、佐々木さんも同行されたそうです。ネット検索すると、障がい者や高年齢者などが、そうでない人びとと共に暮らす社会が正常であると考え、障がいの種類や程度にかかわらず、自ら居住する場所を選択し、必要とするサービスや支援を受けながら、自立と社会参加の実現を図っていくことを基本に活動されている団体のようです。

その小柴さんから「私のこれまでの集大成になる映像を作りたいから関わって欲しい」と依頼されたのだそうです。小柴さんは30歳前に筋ジストロフィーになって、それから生きる、死にそうになるを繰り返しながら、ヘルパーの会社を設立し、NPO法人夢ハウスも設立。今は指先だけが動くのでマウスで操作したり、言葉でパソコン変換してメールでのやりとりができるそうです。その小柴さんは「介護される人の気持ちが自分は分かるから、それをちゃんと伝えたいし、本当に自分が受けたしんどかったことを伝えることで、これから介護しようとする人たちの一つの参考となったら良いし、世の中の人にも伝えたい」と希望されました。動き出そうとした矢先にこのコロナ禍。撮影ができない日々が続いていますが、構想はできていて、いつでも撮影に行ける状態だそうです。

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もう一つ、『ここにおるんじゃけぇ』をご覧になった大阪府河内長野市の障がい者団体から25周年記念ビデオの製作を依頼されているそうです。障がい者や筋ジスの人たちが「お金が欲しい、働きたい、親から離れたい、一人で生きたい」というところから障がい者の人で立ち上げた団体で、皆共に働き、フラットな関係の中で仕事をし、入ったお金は平等に分配。撮影した会議の様子は、実に丁寧に人の言うことを聞きながら前に進めていく姿勢だったそうです。町の中にリサイクルショップも運営されていて、店を開けるときは手伝って貰うけれども、途中から脳性マヒの人が一人で店番。店に来る人たちは、それを良しとしてしていて、地域の中で障がいがある人たちが普通に生きていることがわかる素敵な事例です。

昨年は京都市内にある大学のゼミ合宿で、『ここにおるんじゃけぇ』を見た後でディスカッションするので、それに参加してコメントして欲しいと担当の先生から依頼されたそうです。学生さんたちは自由に感想を述べあい、「いやや、そんな障がい者産むなんて」という学生がいたり、「差別をしているわけじゃないけど、生きていくのが大変だから」という意見などいろんな意見が出ました。その後送られてきた感想文の中に海外からの留学生のものがあり、それを本人の許可を得て読み上げてくださいました。

「私の国ではお腹の中で障がいがある子を産むことは許さないし、無責任なことだと決めつけられている。それは障がい者に偏見があるのではなく、その人たちに苦しく生きて欲しくないと思っているだけです。その人たちを苦しませたのは、その人たちの親でもなく、その人自身でもなく、周りの人です。私は周りの環境によって、こういうことすら気付かなくて、ただ産まないことはあたりまえのことだと決めつけるのは恥ずかしいことだと思います。私が生まれる前も、産むかどうか親はかなり悩んだらしい。お母さんのお腹の中に双子ができて、一人が死んでいると医者から言われて、薬を飲んで堕ろすんですけど、もう一人が死んでいないと分かった。薬を飲んだから絶対障がい者になる可能性が高いので、みんなに産んだらダメと言われた。でも母が私のことを諦めたくなくて今の私が生まれました。幸いにごく普通の人として生まれました。でも、もし私が普通じゃなかったら、今の私はどんな感じでこの世の中を見ているでしょう?どんな生活を送っているでしょう?もしかしたら生きることを諦めているんじゃないかと思います。もし、この合宿に参加しなかったら、このままずっとこのような考えを持ってしまうでしょう」と綴られていました。

その後、彼女はいろんな勉強会に参加し、今後は大学院に進学して出生前診断について自分の国と日本との比較をしたいと言っておられるそうです。出生前診断は、生まれる前に人間の良か不良かを振り分けること。そういうことが新しく起こっています。下之坊監督は「次の世代の人たちに受け継がれていることを私は本当に嬉しくて、これはきっと佐々木さんが残してくれたことだと思っています」と述べ、最後に引きこもりの支援をしている大阪府高槻市のNPO法人ニュースタート代表高橋さんの文章を紹介されました。

「佐々木千津子さんは社会が設けた障がいをもろともせず、いろんなところへ出掛けていきました。それは多くの人が羨ましく思うほどでした。障がいとは何でしょうか?彼女にとって障がいとは何だったのでしょうか?それは脳性マヒなんかではなく、強制不妊治療を始めとする優生思想に代表される健常者の都合の良い理解だったのではないかと考えます。そして、過ちについて誤ることのできない社会は、今も様々な形で現れており、障がいはそこかしこに溢れかえっています。障がいを前に抗い続けた佐々木千津子さん、その姿は生きながらえたのではなく、生きた人としてこの映像に訴えるものを感じました。」

下之坊監督は「私が一番嫌なのは、人ごとに済ませてしまうこと。そういうことをさしている社会の一員でもあるという自覚がすごく大事。自分に何ができるか、自分のこととして捉えることが一番大事なことだと最近感じています」と結んで講演を終えました。
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コロナ禍でもあり、参加者が少なくて申し訳なかったのですが、この後の質疑応答の時間も内容が濃くて、とても有意義な時間でした。当日参加出来なかった人たちにも読んでいただきたいと思い、長文の振り返りになりました。お時間があるときにゆっくり読んでいただけたら幸いです。