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11月12日予定通り「共に生きる会」第5回目の事業を実施しました。タイトルは「誰もがその人らしく生きられる社会をめざして~ドキュメンタリー映画『凱歌』から人の尊厳を考える~」。

予め予定していたスケジュールを急遽変更して、最初に副代表の谷進一監督が撮影中の『沈黙の50年~国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち~』の予告編を上映しました。YouTubeの動画リンクを貼りましたので、ぜひクリックしてご覧下さい。

当初は丹波国際映画祭で谷監督の前作『ヒゲの校長』が上映されるのと重なったので、谷さん不在でスケジュールを考えていたのですが、谷さんが途中までいて下さることが当日朝になって判明。急遽順番を入れ替え、谷監督自ら新作への思いと、ご支援のお願いを直接参加者の方にお話し頂きました。なお、支援窓口については下掲画像の上でクリックして下さると拡大してご覧になれます。宜しくお願いいたします。
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嬉しいことに11日、丹波国際映画祭で『ヒゲの校長』が作品賞を受賞しました。この作品は、今から100年ほど前、手話が「手まね」として否定され、口話が押し進められた時代にあって、子どもたちにあった教育を、と手話を守ることに奔走した実在の大阪市立盲唖学校髙橋 潔校長を主人公にしたお話です。髙橋さんは、戦後の全日本聾唖連盟創設に尽力した人物でもあります。

『ヒゲの校長』で協力されたお一人で『沈黙の50年』製作委員会事務局長をされているのが、上掲パンフレット左ページに載っている大矢 暹さん(ひょうご聴覚障害者福祉事業協会理事長)です。今現在38人の優生保護法による被害者が国家賠償請求訴訟をしていますが、『沈黙の50年』に登場して、優生保護法の被害体験を証言してくださる小林寶二さん(91歳)も原告の一人。残念ながら共に聾者で原告として闘っておられた奥様の喜美子さんは昨年お亡くなりになりました。二人はこの問題で聴覚障害者による国賠訴訟の最初の原告となりました。

二人は子どもに囲まれた生活を楽しみにしていましたが、妊娠が分かったとたん親に病院に連れていかれ、中絶手術だけでなく不妊手術も受けさせられていたのです。このことが分かったのは58年後の2018年1月宮城県仙台裁判の報道がきっかけでした。「今までは親が悪いと思っていたが、国にそんな法律があったのだ」と知って大矢さんに相談したのが始まりでした。高裁では小林さんが勝ちましたが、国が控訴したので最高裁での裁判が控えています。

ちなみに「優生保護法」の手話ができたのも2018年1月の裁判を受けてのことで、全国手話研修センター日本手話研究所(京都市右京区)が作りました。どの裁判も不法行為から20年が過ぎると賠償を求める権利が消滅する「除斥期間」が高い壁になっていますが、そもそも手話がなかったのですから、それ以前の聾者はこの法律のことを知る由もなかったのです。小林さんの証言については、NHKハートネットTVで知ることが出来ます。

当日講演して下さった京都新聞記者の森 敏之さんがたくさんの資料を用意して下さったのですが、その中の11月1日時点での“全国各地の裁判状況”をみると、手術時当時に障害がない原告が6人、知的障害や統合失調症、視覚障害がある人が10人、脳性麻痺が2人、聴覚障害が17人、変形性関節症1人、非公・不明が2人。障害がない人が6人もおられるのにびっくりします。

講演に先立ち、ハンセン病隔離政策だけでなく強制不妊手術の問題も取り上げて、国立療養所多磨全生園に入所している元ハンセン病患者の皆さんを9年間密着取材した坂口香津美監督のドキュメンタリー映画『凱歌』を上映しました。当初は強制不妊手術問題をなるべく広く一般の人に知って貰いたい、とりわけ京都府のこの問題解決に関係ある部門で仕事をされている方たちにこそ見聞して貰いたいという思いが強くて、手話通訳者や音訳に対する配慮を欠いていて慌てました。

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幸いにして、聾の参加希望者の方が聴言センターに手話通訳士派遣制度を利用して申請して下さいましたので、当日はお二人の手話通訳士さんが講演だけでなく、映画上映中もずっと手話通訳して下さり大いに助かりました。事前に映画の採録シナリオを参加者にはお渡しして、映画の内容はご理解いただいたとは思うのですが、同時に手話通訳して頂くとより理解が出来ます。催し全体を通して彼女は「知らなかったことばかりで、大変勉強になった」と言って下さり、それを聞いて私どもも大変嬉しく思いました。

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こちらのYouTubeで、森 敏之記者による講演「京都府内における優生保護法の被害実態と現在の課題」の様子を公開しています。手話勉強中の参加者から「手話通訳士さんの手話は、大変勉強になった」と賛辞の言葉を頂戴していますし、いろんな方にも参考にして頂きたいと思い、なるべく資料の文字情報と手話通訳の様子もフレーム内に収めました。

なお当日は、映画に登場する山内きみ江さん(1934年生まれ)のことを書いた本『きみ江さん ハンセン病を生きて』も紹介しました。不自由な体のため健常者の何倍も時間がかかりますが「できるまでやれば、かならずできる」と何事にもめげずに取り組む姿勢、「知る」ことが差別や偏見を取りのぞく第一歩だと考えて、この映画のように体験を語ったり、園内保育園児たちにありのままを見せて触れ合い、そうした日々を「生きるって、楽しくって」と語るきみ江さんの姿勢に感動し、だからこそ映画のタイトルが『凱歌』なのだと思うと話しました。

10分間の休憩中、“優生保護法問題の全面解決をめざす全国連絡会(略して、優生連)”が呼びかけている最高裁判所宛て署名への協力をお願いしました。オンライン署名はこちらからもできます。また、京都府の京都学・歴彩館が保存している強制不妊問題に関する資料のいくつかをコピーしてきたファイルも見て貰いました。森さんの講演記録動画を配信することで、広くこの問題への理解を深め、少しでも早く全面解決に繋がれば開催した意味もありましょう。

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一番良いのは京都府知事さんに見て貰うことです。府内の被害者は152名おられることが分かっていますが、現状では13人分の記録しか残っていません(8.5%)。ぜひ府知事の政治判断で優生保護法下(1948-1996年)で行われた強制不妊手術に関する資料発掘の調査を進めて頂きたいです。強制不妊手術は、各都道府県におかれた「優生保護審査会」が決定していて、その委員長は府職員の衛生部長が勤めていましたから、府はこの問題の当事者なのです。

2018年から各地で始まった裁判で「重大な人権侵害」「憲法違反」と認定されていますから、京都府は第三者機関に依頼してこの問題を検証して説明する責任があります。京都学・歴彩館所蔵資料の中に、昭和30年1月25日付け京都府衛生部長(優生保護審査会委員長)が病院長に宛てた文章があり、「同法の趣旨をご諒承の上優生手術の実施方について格段の御協力をお願い申し上げます。なお参考として大阪府においては各病院において年間二百件以上の優生手術が行われ又兵庫県においても相当な優生手術が行われている現状であり 大体において精神病院入院の患者のうち一割程度は優生手術の対象になると推定されます」と書いています。この文章からも府が積極的に関与していたことが分かります。

その翌年の昭和31(1956)年に北海道衛生部と北海道優性保護審査会が出した「優生手術(強制)千件突破を顧みて」(同じく京都学・歴彩館所蔵)の文章には「昭和30年12月で回(優生保護審査会)を重ねること59回、その数は1012件に及んだ。件数においては全国総数の約5分の1を占め他府県に比し群を抜き全国第1位の実績を収めている」と書いています。先の京都府衛生部長の文言とあわせて読むと、国が各都道府県にその数を競わせているような印象を受けます。

先日2021年3月21日にサンテレビが放送した報道番組「生まれ、生きる~不幸と呼ばれた子どもたち~」の録画を見ました。1966年当時の高井元彦兵庫県知事が発案して始めた「不幸なこどもの生まれない運動」は知事自ら県内各地で必要性を説き歩きました。1974年まで継続された強制不妊手術について県に残る「劣化予防作業簿」には少なくとも470人が手術を受けたことが載っているそうです。この簿冊の名称にゾッとします。

マスコミの報道姿勢についても森さんが言及されていましたので、それについても書きます。森さんが2016年に調査した段階では、府内で優生保護法に基づく強制不妊手術の被害者が少なくとも89人おられて、その内の一人は知的障害とてんかんのある12歳の少女でした。そのことを同年6月6日付け京都新聞で報じました。1面で京都の被害実態と解説を掲載し、社会面では、2016年5月に知り合った飯塚淳子さん(仮名)の証言を掲載。飯塚さんは1997年に被害を告白し、1997年以降集会で証言を続けておられます。彼女がいなければこの問題はうやむやにされたままだったかもしれません。飯塚さんの証言もハートネットTVでご覧になれます。

解説記事の書き出しは「強制的に人間の生殖機能を奪い、子孫を根絶やしにするむごたらしい手術が、京都でも行われていた。戦後の暗部であり、偏見と差別で人生を奪われた犠牲者は声を上げられないまま、今もどこかで暮らしている。ハンセン病患者への断種や強制隔離について国は2001年、人権侵害と差別助長の責任を認め、謝罪している。旧優生保護法による強制不妊手術の実態調査を急ぎ、救済すべきだ」。この文言は今もそのまま使えます。

2016年以前の京都新聞記事をデータベースで検索しても、明白な人権侵害なのに京都や滋賀での被害件数はもとより、当時の各都道府県に残っている優生保護審査会文書や手術報告書に注目した記事は1本もなかったそうです。優生学を研究されている立命館大学副学長の松原洋子先生が、『現代思想』(2018年6月号)で書かれた文章に「公文書館や県庁などの資料を用いた記事では、筆者が知る限り、2016年6月6日『京都新聞』朝刊に掲載された『旧優生保護法 1953~75年 府内89人不妊手術強制 疾患や障害理由に』が最も早い」とあります。マスコミが事の重大さに気付いたのは、飯塚さんの報道で知った佐藤由美さん(仮名)が提訴した2018年1月仙台裁判からなのでしょう。

森記者の取材に匿名で応じた府内在住で20歳代で手術を受けた聾の女性は、結婚2か月前に両親から言われて産婦人科に連れていかれ、医師からの説明もないままに手術が行われました。何が行われているのかわからなかったそうですが、当時は「聾者は聞こえる人に可愛がられなさい」と教育を受けていたそうですし、ご両親は手話ができず、当時は手話通訳者もいなかったこともあり「元気なのにどうして?」と疑問に思いつつも、十分なコミュニケーションが取れなかったと語っておられます。先に書いた小林寶二さんも聾学校で「聞こえる人に逆らってはいけない」という教育を受けたと話しておられました。そうした時代背景もこの問題に影を落としています。

この女性は「手術を受けたことが恥ずかしい」との思いが今も消えず、「仕方がない」と諦めて、裁判はせずに一時金(人生を台無しにされたことに見合わない、僅か320万円)を受け取られました。府内で被害者であると認定され、一時金を受け取った人は今年8月末時点で14人(9%)にとどまっています。全国でも1061人で4%に過ぎません。この申請受け付け期限が来年4月に迫っています。

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2018年の裁判からようやく国が動き出し、その年7~9月に厚生労働省が都道府県・政令市対象に調査を実施しました。「強制不妊手術の記録が残っていますか?残っていれば何人分ありますか?」と問いかけました。それに対し、府内の医療機関・福祉施設が回答したのは僅か4%のみだったそうです‼ 設問への回答も「ある可能性」「ない可能性」も用意されていて、今一つ本気度が感じられません。もっとしっかり調査に取り組んで貰うようにすれば、新たな資料が見つかるでしょう。それを要望したいです。なお、国会初の調査報告書が今年6月に公表され、こちらで読むことが出来ます。

貼り付けた写真の補足説明をすると、国は当時、手術は公益、手続きは慎重、手術は容易で危険を伴うものではない、という3点を理由に強制不妊手術をしていたことが京都府に残っている資料からわかっています。しかし、実際は、手術は違法だったという司法判断が相次いでいますし、優生保護審査会を開かないまま断種を決めていた事例や優生保護法から外れた睾丸摘出や子宮摘出が行われていた事例があるなどずさんな審査があったことが判明しています。

更に、手術の後遺症で生理が来るたびに激痛で動けなくなり仕事を休まざるをえなかったり、仕事を休むことで気まずくなって職を転々とせざるを得なかった人、子どもが生まれないという理由で夫が離婚届を記入することなく家を出て行ったきり、音信が途絶えて今も苦しんでいる人がいるなど、手術に起因する様々な被害があります。こうした状況を弁護団は“人生被害”と呼んでいるそうですが、全くその通りです。健康だった体に理不尽にメスを入れられた結果を被害者たちは一生背負っているのです。

講演で初めて知りましたが、昭和32(1957)年6月時点の府「優生保護審査会」は、委員長が先ほどの府衛生部長、委員に京都大学教授で精神科部長が2人、京都府立医科大教授で精神科部長、京都地検検事、京都簡易裁判所判事、京都産婦人科医会会長、京都府民生委員が2人の9名(男性8人と女性1人)で構成していました。現状では民生委員が審査会メンバーだったことを隠して黒塗りしていて、人の人生を奪う重大な決定をしておきながら、それが誰かを知ることが出来ないのだそうです。神奈川県ではほとんど公開しているのと大違いです。なぜ、京都府はこの問題に熱心に取り組まないのでしょうか?

会場からの質問に「京都府が調べてくれないことについて、私たちができることはありますか?」というのがありました。問いに対し、森さんは「知事が決断しない限り、何も変わらないように思う」という趣旨の答えをされましたが、「核心を突くご質問だったと思い、一晩考えて」メールを送ってくださいました。以下に。

……各都道府県が本人同意のない強制不妊手術を決定していた当事者である以上、各都道府県は説明責任を果たすため検証し公表するのが当然です。ところが、京都府を含めて他の都道府県も検証に乗り出そうとしていません。おそらく優生保護法をつくった国の責任だ、自分たちは関係ないと思っているのだと思います。知事や都道府県の担当者は、そこを認識できていないからこそ、自分たちには関係ないと考えているのでしょう。「被害者」対「国」の構図で報道しがちなマスコミの責任もあると思います。おかしいと考える人が増えていけば、行政も考えを改めるでしょうし、兵庫や大阪では、障害者団体が中心になって被害者の記録を徹底的に調査せよと行政に申し入れを行っています。そのようにお応えすればよかった、と考えております。……

「おかしいと考える人」が増えるよう是非、公開した講演記録映像をご覧頂けるようお知り合いにもご紹介ください‼

マスコミの姿勢に関しては、他にもお話しくださいました。今年6月1日の仙台高裁で、飯塚さんと佐藤さんの裁判がありました。原告勝訴が続いていたこともあり、この裁判でも原告が勝訴すれば一気に政治解決に繋がるのではないかという機運が関係者の間で高まっていて、多くのマスコミも現地に駆けつけました。が、結果は初の高裁敗訴。

原告勝訴を見込んでいた弁護団は、もともと2日に国会議員に早期の政治決着を働きかける予定を入れていたこともあり、当初の予定通り弁護団と原告、支援者は国会議員会館で議員回りをして、早期政治決着を呼びかけ、その後で記者会見を開きました。各地の弁護団や支援者が見守る中、敗訴になって落ち込んでいる原告2人と東京の原告1人が前に並びましたが、会見場にいた記者は森さんと仙台からやってきた通信社記者の2人だけだったそうです。「原告の方も、マスコミの関心が一夜にして引いていくように感じて辛かったのではないか」と森さん。

ハンセン病訴訟に取り組んだ大分の徳田靖之弁護士は、ハンセン病訴訟が1つの違憲判決で政治決着したのに対し、優生保護訴訟は多くの違憲判決が出ているのに裁判がなお続いている背景に、マスコミ報道の少なさを挙げておられるそうです。報道が少ないから世論を高めることにならないのか、世間の人が関心を持っていないからマスコミが書かないのか、どっちなのでしょう?私もSNSで優生保護法問題について書いても、他のことと比べてみても、反応がほとんどなく、関心の低さを感じます。でも、産むか、産まないかは、自分が決めるものであって、他人が、国が決めることではありません。ましてや数を競うように、「騙しても良いから不妊手術を」という姿勢は間違っています。だからこそ、この問題の被害者の人たちを早く救済できればと思い、自分にできることで訴えています。

「もう、過去のことだから忘れたい。仕方のないことだったのだから、そっとしておいて欲しい」と考えておられる方もいるでしょう。「知られたくない」と思っている人もおられるでしょうし、自分が被害者だと知らないでいる人もおられるでしょう。いろんな考え、生き方がありますから、一概には言えませんが、それはそうとして、国には人権を無視した政策を長く取り続けてきたことに対して謝罪することが求められ、優生思想を無くす取り組みをしっかりと推し進めて貰いたいです。

誰もがその人らしく生きていける世の中になれば良いなぁと願いながら、11月12日の振り返りとします。

いよいよ次の日曜日12日に「共に生きる会」の第5回目の催しをします。

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京都新聞10月30日付け市民版の催し案内

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京都新聞11月3日付け地域総合面でも掲載して頂きました(画像の上でクリックすると、拡大して読めます)。つい先日おもちゃ映画ミュージアムからのメールマガジンでもお知らせをしたのですが、なかなか一般の方に関心を持って貰いにくいテーマなのでしょうか、申し込みが伸びません。紅葉を楽しみたい季節でもありますし、明るく楽しくが好まれるのでしょう。それでも、「自分には関係ない」ように思えても、この問題は決して他人ごとではありません。お一人でも関心を持っていただけるように願っています。

街を歩けば手話でお話をされている方、どの様な事情かはパッと見た目にはわかりませんが、ヘルプマークを下げている人もよく見かけます。75年前の1948年の国会で全会一致で成立した「優生保護法」は、「不良な子孫の出生を防止する」目的で、特定の障害者や病者、社会にとって存在が好ましくない人々に対して、国家が子どもを産むことを禁止することを可能にした法律です。4年後に法改正し、さらに対象を拡大します。今、国を相手に人権回復の裁判を起こしている人々の中には、障害や病気がないにもかかわらず19歳の時に強制不妊手術をされた男性、同じく25~26歳ごろに手術をされた女性、知的障害がある人、統合失調症、脳性麻痺、聴覚障害、変形性関節症の人々ですが、最も多いのが聴覚障害者の人々です。

昨年10月手話を守った実在の校長、高橋潔さんを主人公にした映画『ヒゲの校長』の資料展示をしたのですが、広範囲から大勢の人々が見に来てくださいました。中でも聾者の姿を多く拝見し、正直「こんなに耳の不自由な方が世の中にはおられるのか」と驚きました。もう少し早い時代の生まれだったらと想像するだけでも鳥肌が立ちます。かといって、「今の時代に生まれて来て良かった」とも言えない現実があります。

今公開中の『月』は、2016年7月26日神奈川県相模原市で実際に起きた「障害者施設やまゆり園殺害事件」をもとにして描いています。ひところ某国会議員が「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算を付けるのは、『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります」と述べました。子どもを産むか、産まないかを「生産性」に置き換える考え方は如何なものでしょうか?

大量殺人を犯した植松 聖をモデルにした映画の中のさとくんのセリフが怖いです。
「やっと決心がつきました。頑張ります。この国のためです。意味のないものは僕が片づけます」。某国会議員と同じで「生産性がないものを排除する」という優生思想そのままの誤った考え方です。1996年の優生保護法改正の時、2019年4月国会で旧優生保護法一時金支給法が成立した時に、なぜ国を挙げてのこういう人権侵害を48年間も実行してきたのかを国に問い、社会全体で考えるべきでした。今も社会に深く根付いている優生思想を克服するにはどうしたらいいのでしょう。12日はそうしたことを考える場になればと思います。

2020(令和2)年11月、神戸の裁判で証言に立たれた日本障害者協議会代表藤井克徳さんの速記録によると、この時点での障害者総数は965万人(政府刊行障害者白書)。ここには認知症の人は含まれず、ロービジョン、難聴、難病、アルコールなどの依存症、吃音なども含めると人口の20%前後になるそうです。藤井さんは「こういう数字を前提にして、社会の設計を組んでいったり、個人の生活設計を組んでいく必要がある。実は、私たち人間というのは、人生の最終章をほとんど間違いなく障害状態をくぐりながら旅立っていくというふうに言っていいと思います。この問題は全ての人に関わる問題である」と述べておられます。

きみ江さん本
さて、これは11月12日にご覧頂く映画『凱歌』に登場する山内きみ江さん(1934年生まれ)について書かれた本。著者の片野田 斉さんはNHK映像取材部助手を経てニュース現場を経験し、ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバーとして活躍されています。今頃、ネットで上掲の『きみ江さん ハンセン病を生きて』(偕成社)出版後にきみ江さんと一緒に取材を受けられた内容が公開されているのに気付きました。それは、こちらです。

きみ江さんは元ハンセン病患者で、国の隔離政策により21歳の時に東京の東村山市にある国立療養所多磨全生園に入居した後、同じ入居者の山内 定さんから「四畳半にきてくれないか」とプロポーズされます。定さんは当時の規則で断種の手術を受けさせられました。麻酔もかけられずに、です。国から「子どもを作ってはいけない」とされた二人は、不自由な体で苦労を重ね想像もできないような大変な経験をされたにもかかわらず、映画のタイトルは、戦いの勝利を祝う喜びの歌『凱歌』なのです。その理由は、きみ江さんの前向きに生きようとする姿勢にあります。

映画を観ながら、涙をこぼしながらも、最後に温かい感動を覚えるのはきみ江さんの人間力に魅せられるからにほかなりません。「今、自分はどうしようもない…」と落ち込んでいる人がおられたら、映画をご覧になれば、きっと「へこたれるものか!」と力が湧いてくるでしょう。映画を通して国の誤った政策を知り、その惨さに怒りを覚え、同時に、それに負けないで日々気高く強く生きている人の生き様に「ならば、もう一度!」ときっと思わせてくれます。

きみ江さんの両手は肘まで、両足は付け根近くまで知覚麻痺、運動麻痺を起こしているので感覚がありません。なので火傷をした感覚も怪我をしても気が付かず、処置が遅れて。そんなことの繰り返しで右手の指はなくなり、左手の指は全て内側に曲がったまま固まっています。

ハンセン病は昔「らい病」と呼ばれていました。2000年以上前から差別を受けてきた伝染病です。1873年ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師が発見した「らい菌」の感染により、顔、手足など人の目につく部分が変形したり不自由になります。両目を失って全盲になる人もいるそうです。人々が恐れる「らい菌」ですが、感染力はとても弱く、1943年アメリカで開発されたプロミンをはじめとする化学療法で治る病気になったにもかかわらず、日本の場合は強制隔離を規定した「らい予防法」が1996(平成8)年4月1日国会で廃止されるまで誤った政策が続き、元患者の人々は差別と偏見に晒されてきました。

11月8日夜、京都大学YMCA地塩寮で元ハンセン病患者の男性と妻を描いた戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『マイ・ラブ:絹子と春平』上映と監督の話が催されたことを知人から聞きました。会場でも私どもの催しを紹介して頂けたようで、主宰者の方の心遣いに感謝しています。もう少し先に知っていたら参加できたのですが…。本当に残念なのですが作品自体はNetflkixでの公開なので、契約していない私は現状では観ることが出来ません。けれども内容はこちらで紹介されていて、思いを知ることが出来ます。

『凱歌』も長い間国がやってきた「らい予防法」と「旧優生保護法」下での強制不妊手術という大きな過ちを体験者が訴えています。このような悲劇を繰り返さないために、勇気をもって語って下さる人々の言葉をぜひ聞いて頂きたいです。

この本を読むまで知らなかったのですが、ハンセン病は免疫力が十分でない乳児期の感染が最も多いのだそうです。きみ江さんが感染した時も乳幼児の時と思われていて、7年以内の潜伏期間を経て、首のうしろに500円玉ぐらいの白い斑点ができました。10歳ぐらいの時に手足にしびれを感じるようになり、熱や痛みを感じることがなかったので火傷や怪我の繰り返し。やがて神経痛が全身に広がります。どんどんできないことが増えていきますが、そんな時でもお母さんは心を鬼にして、自分のことは自分でやるように仕向けました。

21歳の時「らい病」ではないかと周囲も自分も思うようになって受診。医師から「らい病の一番危険な時に、家族と一緒に暮らし、赤ん坊もいるのに誰も症状が出ていないなら敢えて病院に行くことはない」と言われましたが、「近所の人に私の病気を知られたくない、保健所にだけは言わないでほしい」と依頼してその3日後に多磨全生園に向かいました。保健所の人が大勢来て家の中が真っ白になるほど消毒されて知れ渡り、それにより家族が差別されることを危惧したのです。入所して10日後の検査で無菌と診断されましたが、「らい予防法」には退所規定がなく、一度「らい病」と診断されたら死ぬ迄療養所で生きていくしかありませんでした。菌があろうとなかろうと関係なかったのです。全く酷い法律です。

きみ江さんは、お母さん譲りなのでしょうか、負けん気が強く、できないことがあるとできるまでやれば必ずできると諦めないで何回でも挑戦します。同じ入所者の定さんはその粘り強い根性に惹かれました。「患者の結婚は子孫を残さない」が条件だったので、その時余命4年を言われていた定さんが断種手術を受けましたが、この本ではその時の具体的なことは一切書かれていません。『凱歌』で初めて非人間的な扱いを受けたことを証言されています。

2001年5月ハンセン病に対する国の責任が問われた裁判の判決で熊本地方裁判所は「らい予防法にもとづくハンセン病政策は、患者の人権をはなはだしく侵害し、差別や偏見を大きくした」と指摘し、「少なくとも1960年から、ハンセン病は隔離が必要な病気ではなく、隔離自体が明らかに憲法違反であった」として、患者が「人間らしい生き方」を奪われたことへの国の責任の所在を明らかにしました。

さまざまな困難を経験したきみ江さんは社会復帰を果たし、縁を得て養女を貰い、生前の定さんは孫を抱くことも出来ました。今は多磨全生園内にできた花さき保育園の園児たちとの触れ合いを楽しみにされ、「生きるって、楽しくって」と話します。差別と偏見による悲劇を二度と繰り返して欲しくないとハンセン病の語り部として積極的に講演も引き受けておられます。

ドキュメンタリー映画『凱歌』もその一つです。お一人でも多くの方にご覧頂きたいです‼宜しくお願いいたします!!!!!

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4月30日兵庫県の新長田で行われた学習会で主催された大矢 暹さんから購入した冊子『国から子どもをつくってはいけないと言われた人たち-優生保護法の歴史と罪-』。作られたのは「優生保護法被害者兵庫弁護団」と大矢さんたち「優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会」。この冊子の終わりのほうに敬和学園大学人文社会科学研究所長の藤野 豊さんが書かれた「意見書」が載っていて、この問題の背景を知る手掛かりになりましたので、読みながら印象に残った箇所を紹介します。


1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンがラテン語で「良く生まれる」という意味の「eugenics(ユーゼニックス)」という言葉を作り出しました。彼は進化論で知られるダーウィンのいとこ。生物は環境に適応できる種が進化し、適応できないと滅び、そのことによって生物は進化してきたとダーウィンは説きます。それを人間社会に置き換えれば、優秀な人間は生き残り、劣った人間は滅びることになります。1877年日本に招かれたアメリカの動物学者エドワード・モースは社会ダーウィニズムという形でこの進化論を紹介し、文明開化の思想として普及していきます。

社会ダーウィニズムをもとに生まれた優生思想は様々な差別を正当化してきました。優生政策推進の中心人物永井潜が“eugenics”に「優生学」の訳語を使用し、社会運動家賀川豊彦、社会事業研究家海野幸徳、内務省衛生局技師氏原佐蔵らが、「悪質者」(彼等がいうのは、知的障害者、精神障害者、犯罪者、色情狂者、アルコール依存症、梅毒患者、犯罪者、被差別部落の住民ら)への不妊手術が必要だと主張します。

1915(大正4)年、ハンセン病療養所である東京の全生病院院長光田健輔(ハンセン病患者絶対隔離政策推進役)が男性ハンセン病患者への不妊手術を実施し、司法省はこれを黙認しました。優生思想は実施の段階に進み、社会運動家の中にも優生思想は広まっていきます。新婦人協会は花柳病男子結婚禁止法制定を求める運動を展開します。性感染症は民族の質をおとしめる病気だとして売春婦を国は厳しく管理するべきだとし、この考え方は戦争中の慰安婦制度の発想に繋がります。

ドイツで1933年1月にヒットラー政権が成立すると遺伝性疾患子孫防止法を公布し、遺伝性と断定された障害者や病者に強制不妊手術を開始。さらに1939年9月にT4計画を発動して、精神障害者、知的障害者、さらにユダヤ人、ロマ、同性愛者らを大量虐殺していきました。「T4作戦」について、最初に掲げた本の中で日本障害者協議会代表の藤井克徳さんは「価値なき生命の抹殺を容認する作戦」と翻訳されています(78頁)。

ドイツに刺激された日本は、戦争へと突き進む中、長期的な戦争継続のために弱い国民を作らないよう優生政策の具体化を進めていきます。1940(昭和15)年国民体力法と共に国民優生法が成立し、「公益」を理由に遺伝性とみなされた障害者、病者への不妊手術が実施できることになりました。ハンセン病患者は国民優生法の対象とはならなかったのですが「特殊な病気である」という理由で国民優生法を拡大解釈して不妊手術は継続されました。

敗戦後の日本は経済が混乱し、食糧難に直面。人口増殖から人口抑制へ政策の展観が必至、妊娠中絶(当時は原則違法)も横行していました。産婦人科医の太田典礼(衆議院議員、日本社会党)、加藤シズエ(衆議院議員、日本社会党)、福田昌子(衆議院議員、日本社会党)、熊本県医師会長で産婦人科医の谷口弥三郎(参議院議員、民主党)らが中心になって、妊娠中絶手術の適用を拡大し、「悪質の遺伝防止」という「公益」を理由にした強制的な不妊手術を可能にする新法としての優生保護法制定へ動き出します。

1947年2月の帝国議会衆議院本会議で河合厚相は前年11月3日に公布された日本国「憲法の本則に基きまして、個性尊重の時代になって来ましたので、強制的に断種その他のことはただいまやる考えはもちません」と答えています。一方で、厚生省人口問題研究所では、妊娠中絶の問題、国民優生法の運用の問題が議論されます。委員には戦前から優生政策を主張してきた医学者と共に日本社会党衆議院議員加藤シヅエが名を連ねています。

1948年6月芦田均内閣の下で開かれた第2回国会で与党の民主党・日本社会党・国民協同党、野党の民主自由党、参議院の緑風会による超党派の議員立法案として優生保護法案が提出されました。第1条で「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と明記。第4条で医師は患者が別表で示された疾患に罹っていることを確認し、その疾患の遺伝を防止するため、公益上必要であると認める時、都道府県優性保護委員会に不妊手術の適否の審査を申請できると規定しました。

その別表には56の疾患が具体的に記され、それに該当する障害者や病者は、本人の意思に関係なく、優生保護委員会が許可すれば不妊手術を実施されることになりました。この決定に不服があれば中央優生委員会に再審査を求めたり、再審査の結果にも不服があれば訴訟を起こすこともできるという条文も添えてありますが、現実として当事者たちにとって高いハードルだったことでしょう。

優性保護法案第20条21条では、都道府県ごとに「遺伝その他優生保護法上必要な知識の普及を図って、不良な子孫の出生を防止するため」と明記し、優生思想の国民への普及も法の課題としています。

つい先日の「優生保護法問題の早期・全面解決を求める11.1集会」で体験を語って下さった中にも、家族から不妊手術をするよう強いられたことで、長い間家族を恨んでいたという被害者の話がありました。国の方針のもと都道府県が優生思想普及を推し進めていたので、例えば聾者は子どもを持つべきではないと家族から勧められて不妊手術を受けた人もおられました。

審議は1948年6月19日参議院厚生委員会で開始され、谷口弥三郎が法案説明に立ち、「先天性の遺伝病者の出生を抑制することが、国民の逆淘汰を防止する点からいって、極めて必要」、その上で「母性保護の見地から合法的な妊娠中絶を認めようとするもの」だと付言しています。感染症であるハンセン病患者と配偶者を対象にすることへの疑問や強制不妊手術の是非等などの質問もなされず、法案は22日全会一致で可決されました。

続いて6月24日衆議院厚生委員会で審議が開始され、日本社会党の福田昌子が法案説明に立ち、不良分子の出生防止と母性保護のために妊娠中絶の容認の両方が法案の目的だと説明。27日には谷口弥三郎が説明に立ち、「新憲法のもとにおきましては、人権尊重の意味から申しましても、母性の健康を保護するということがきわめて必要である」として人工妊娠中絶の拡張の必要を訴えますが、彼が考える日本国憲法が尊重する基本的人権には女性の人権は含めていても、遺伝性とされた障害者や病者の人権は範囲外に置かれていました。ここでもハンセン病を対象にしたことへの疑問や強制不妊手術の是非が議論されず、28日に同委員会、続く本会議でも全会一致で可決され、「優生保護法」が成立しました。

1949年5月12、13日と優生保護法改正案が審議され、13日に本会議で過半数の賛成で可決しました。その内容は、妊娠中絶手術の根拠に経済的理由が付け加えられたことと、強制不妊手術の申請を医師の任意判定から義務化するという2点です。続く22日衆議院厚生委員会で日本社会党の堤ツル代は「民族の衰微」を防ぐために優生保護法の強化、拡大を求める賛成演説を行い、当日の本会議でも異議なく可決されました。

京都学・歴彩館の保存されているファイルに1949(昭和24)年10月24日付け厚生省公衆衛生局長から各都道府県知事宛通達「優生保護法第十条の規定による強制優生手術の実施について」が保存されています。医師が「公益上必要である」と認めて強制優生手術を行うに当たっては、手術を受けるべき者がこれを拒否した場合、身体を拘束したり、麻酔を打ったり、欺いても良いとの通達です。医師の間に広がる本人の意思によらない不妊手術は基本的人権の侵害になるのではないかという不安に対する回答で、医師に躊躇わずに手術をするよう求めています。通達文最後は「その上優生手術は一般に方法が容易であって格別危険を伴うものではないのであるから、前に述べたような方法により、手術を受ける者の意思に反してこれを実施することも何等憲法の保障と反するものではない」で締め括っています。人権への配慮はかけらもありません。この年度の強制不妊手術実施数は132名でした。

その後も谷口弥三郎や福田昌子は強制不妊手術数が少ないことを問題視し、その数を増やす努力を求めます。谷口らの議員立法で審議され、優生保護法は1952年4月に改正されます。それまで医師が都道府県優生保護審議会へ申請していた妊娠中絶手術が医師の判断だけで済むようになっただけでなく、遺伝性ではない精神障害者や知的障害者に対しても保護義務者の同意と都道府県郵政審議会の決定があれば不妊手術が可能になりました。その対象には犯罪者や浮浪者、街の売春婦たちも含まれました。

1955年、全国の強制不妊手術件数は1362名でピークに。
1968年、佐々木千津子さんが、広島の病院にて法律で禁止された放射線照射で不妊手術を受けさせられます。その手術が子どもをできなくなるするための手術だったことを知らなかった佐々木さんは、子ども好きだったこともあり、実名と顔を出してこの悔しさを訴え続けました。後遺症でもずっと苦しまれました。
1971年、滋賀県が娘への強制不妊手術を拒む親を「無知と盲愛」と公文書に記載しています。

1994(平成6)年国際人口開発会議(カイロ会議)でDPI女性障害者ネットワークが日本の優生保護法を告発し、それが国際的に報道されて、翌年の世界女性会議(北京会議)で性と生殖に関する健康・権利が採択され、日本の優生保護法が障害者への差別法だと批判する国際世論が高まります。らい予防法についてもハンセン病患者への差別法だと国際的な批判も高まり、1996年4月1日らい予防法が国会で廃止され、優生保護法からハンセン病患者と配偶者への不妊手術、妊娠中絶手術を規定した条項も削除されました。時の厚生大臣菅直人が隔離政策と不妊手術を実施したことに対する謝罪と反省の言葉を述べたことは今も記憶にあります。

1996(平成8)年6月26日優生保護法は母体保護法に改正されました。この時に「不良な子孫」の出生防止に関する条文は全て削除されましたが、改正に関する審議は一切なされず、優生保護法の何が問題なのかも議論されることはありませんでした。私が参考にして書いている「意見書」を書かれた藤野 豊先生は、「もし、改正について議論を深めれば、50年近くの長きにわたって、超党派の議員立法として成立したこの法の下で、「公益」を理由に、特定の障害者、病者に対し国家が重大な人権侵害を続けてきたことを国会も認めねばならず、与野党ともにそれを回避したとしか考えられない」と書いておられます。

1997年、市民団体「優生手術に対する謝罪を求める会」が発足し、宮城県の飯塚淳子さん(仮名)が被害を名乗り出ます。
1998年、国連人権委員会は日本政府に対し「法律が強制不妊の対象となった人たちの保障を受ける権利を規定していないことを遺憾に思い、必要な法的措置がとられることを勧告」しますが、未だに実現していません。2016年にも国連女性差別撤廃委員会が日本政府に法的救済を勧告しています。

2018年1月、宮城県で初の国家賠償請求訴訟。この裁判を契機にその後全国各地で訴訟が起こり、12の地域で38人の原告が、国の責任を問うて裁判に立ちあがりました。残念ながら、そのうち5名が無念のうちに亡くなっています。
2019年4月「旧優生保護法一時金支給法」ができます。申請し認定されれば一人320万円が支給される法律ですが、この時も、優生思想を無くすアピールはしていません。2023年11月1日の集会の時点で、「一時金を受け取ったのは、たったの4%足らず」と参加した国会議員が発表しています。

藤野 豊さんは「この訴訟は、日本国憲法に規定された基本的人権を奪われてきたひとびとの人権を回復させる、まさに人権裁判である。裁判所に対しては、原告の訴えに耳を傾け、原告の受けた人権侵害に向き合い、原告に理解ある判断をしていただくことを期待する」と「意見書」の最後に書いておられます。全く同感です。

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